きみはドルチェ

妹におやつをせがまれて、バナナのパンケーキを焼いてやったのが最初。
お返しのアイスボックスクッキーが好評で、お菓子目当てにバレンタインはいつもチョコの山。
甘いものを口にした女の子の笑顔は何よりもかわいくて、本格的に作れるようになったらもっと喜ばれるだろうと、製菓学校に入った。
今年の春ついに卒業して、晴れて一人前のパティシエになりました。
モテてモテてモテまくって、飴細工作りで鍛えたゴールドフィンガーで夜も職人になってやるぜ! とか思ってた、のに。

「ゴラァ古市ィ! 洗いもん溜まってんぞ!」
「ハイ! 今やります!」

甘い匂いが立ち込める厨房、そこには似つかわしくない低い罵声が飛んできた。勢いよく返事をして流しへ走ったオレに、声の主はチッと舌打ちする。
常にメンチを切っているような凶悪な目つき、唇に光るボディピアス。若くしてこの店を任されているシェフの神崎さんは、コックコートを着ていなければ、というか着ていてもただのチンピラにしか見えない。
なのにホールケーキにいちごやフランボワーズを飾っていく手つきは、到底オレでは敵わないくらい繊細で、ここまでギャップのある人も珍しいと思う。
横目で見ていたら神崎さんに睨まれたので、慌てて洗い物に集中する。カスタードクリームがこびりついた大きなボウルはめちゃくちゃ重い。使い切ったマロンペーストの瓶は家庭用では考えられないくらいでかい。
つまりね、こういうことですよ。うちで家族の分をちまちま作るのと、店に出す大量のお菓子を生産するのとでは、規模が全然違う、使う才能だって全然別物なのだ。
砂糖も小麦粉も袋単位。果物の詰まった段ボールを何箱も運ぶのなんてざらだし、たらいみたいなボウルに入った生地を延々混ぜ続けるなんてのも日常茶飯事。
センスもお菓子への愛情ももちろん必要だけど、体力腕力がなければやっていけない世界だ。
だからケーキと言えば若奥様とかお母さんとかが作るイメージだけど、実際のパティシエはまだまだ男が多いのだ。うちの店も職人はみんな男、甘い匂いに混ざってほんのり汗くさい。
おまけにうちの店は、シェフの人を遠ざけるルックスに反してずいぶん流行っていて、朝から晩まで働きづめだ。
オレのゴールドフィンガーはお菓子作り以外に発揮されることなく、そろそろ錆び付きそうである。

「ため息つくとは余裕だな。それ終わったら余裕な古市君にはオレンジ剥き一箱お願いしようじゃねーか」

ガン、と音を立てて神崎さんはめっちゃめっちゃの泡立て器を何本も流しに転がした。コレすげー洗いづらい。そしてオレンジ剥き……いつになったらオレは本格的にケーキ作りをやらせてもらえるのか! 見習いのオレは雑用や下ごしらえばかりで、まだきちんとした仕事を任されてもらえない。
くそー、合コンではパティシエってウケるけど、『古市君の作ったケーキ食べたーい』とか言われてもんなもん店に並んでねーんだよ!
やけくそマッハで洗い物を片づけていると、裏のドアが音を立てた。

「姫川さん、お疲れさまです」
「おー古市、お疲れ。ん? おいおい神崎ィ、あんだそのセンスのかけらもねえデコレーションは。オレがやった方が百倍マシだ、この店そろそろ潰れんじゃねーの」
「ざけんなマジ死ねつーかお前の店でもあんだろーが」

やってくるなり神崎さんと口汚い罵り合いを始めたのは、店のマネージャー、経営者の姫川さんだ。かなり仲悪いけど高校から製菓学校も一緒の腐れ縁で、噂では姫川さんもお菓子作りの腕前はかなりのものらしい。経営側に回った理由はよくわからないが、神崎さんに前聞いたら、

『あのリーゼントはコック帽には入んねーだろ。職人やめますかそれともリーゼントやめますかってなって結局あの頭取ったんだからマジ趣味の悪い野郎だよな』

と言っていた。そんなわけねーだろ、いや、そんなことある気もちょっとするけど。

「神崎の時代はもう終わりだな、政権交代だ政権交代。古市、いくらだ? いくらでお前オレと新しい店やる?」
「ええっとー……」
「んなわけねーだろーが! ていうか古市てめえも迷うたあどういうことだ!? ここはオレは神崎さんに一生ついていきます! って言うとこだろーが!」
「古市もこんな乳くせえっつーかヨーグルッチくせえ男なんかから学ぶことねーよな!」
「うるせえフランスパン野郎が! 砂糖まぶしてこんがり焼いてラスクにされてーのか!」

ドアにはめ込まれた小窓から見える店先では、女の子たちが目をきらきらさせてショーケースを覗き込んでいるというのに、厨房はチンピラとリーゼントの取っ組み合いである。お客様方申し訳ございません、そのかわいいケーキ作ってんの実はこんな奴らなんです。
ふたりのくだらないケンカをどうしたもんかと眺めていると、ホールのバイトの女の子がお手伝いお願いします、と声をかけてきた。店が混んでホール担当だけじゃ人手が足りなくなった時は、厨房の人間がヘルプに行く決まりだ。そしてだいたいそれは一番下っぱで一番愛想のいいオレの仕事である。

「あ、オレ行ってきます」
「おい古市ィ! 話まだ終わってねーぞ!」
「ヨーグルッチよりフランスパンだろ古市ィ!」

ヘルプに呼ばれたのも納得するくらい店先はお客さんで溢れかえっていて一瞬うっとなったけど、ふたりのガキみたいなケンカに付き合うよりはよっぽどマシなのだ。