ぜろ

古市貴之21歳、職業はパティシエです。そう名乗ると合コンでは結構食いつかれる。

「えー、私ケーキ大好きー!」
「古市君の作ったケーキ食べてみたーい!」

そんなこと言われたってオレはまだ見習いで、仕事と言えば雑用や下ごしらえばかり。作ったケーキなんて店に並んでねーんだよ! ……と心の中で叫び返すこと約一年半。でもこの夏のオレはもう違うんです! 製菓学校での飴細工作りで鍛えたゴールドフィンガー、そろそろ夜の出番かな!?

「実は今週から、オレが考えたお菓子を店に出してるんですよー」
「すごーい! どんなお菓子?」
「それがですねー、『ゼロ』って言って……すいません、ちょっと失礼」

ポケットのスマホがLINEの着信を知らせる。ここぞという時に超絶邪魔だが、まるでヤクザみたいなうちのシェフからだったらまずいので確認した。

男鹿辰巳『今日休みだって言ってたよな。今からお前んち行く』
古市貴之『来んな。合コンだとも言ってただろ』
男鹿辰巳『忘れた。後20分くらいで着く』
古市貴之『オレは帰らないからな!』

ここまで返信している間に、とっくに話題は他へ移っている。

男鹿辰巳『お前んちの前で待ってて、補導されたらどーしよーかなー古市君』

「――っ! くそっ!」

思わず悪態をついてしまった。男友達も女の子たちもみんなぎょっとしている。オレはへらりと笑顔を浮かべ、ちょっと仕事で呼び出されて、と席を立った。
LINEの相手は16歳。親御さんの許しを得ているとはいえ、補導より職質が似合う、うちのシェフに負けず劣らずの悪人面だとはいえ。高校生だということを強調されるとどうにも逆らいづらいのだ。

古市貴之『後30分くらいかかるから、コンビニとかで時間潰してろよ』
男鹿辰巳『へーい』

懐メロを口ずさみながら夜道を早足で帰る。あーいつはあいつはかわいいー、年下の男の子……って。

「全然かわいくねーけどなっ!」

思わずセルフツッコミする。合コンで向かいの席に座ってた、保育士さんだというポニーテールの女の子の方が、比べるまでもなくかわいかった。それなのに、まったく、もう! ため息吐き出して、見上げた月は白かった。
これからしばしお付き合い頂くのは、一年前たまたま知り合っただけだった高校生の男鹿と、どうしてこんなに仲良くなったのか。そしてオレの考えたお菓子『ゼロ』が、どういう経緯で店に並ぶことになったのか。そんなお話だ。

* * *

丸ごと桃のコンポートの中にカスタードクリームを入れたお菓子が、うちの店の初夏の看板商品。オレも大好きだし、毎年販売開始を楽しみにしてくれてるお客様もたくさんいる。
とはいえ夏は基本的にケーキが売れにくい季節だ。その時期をシェフの神崎さんは新しいチャレンジをするチャンスと捉え、店内コンペを開催した。見習いのオレなんかも含むパティシエ全員に、盛夏の新商品のアイディアを出させたのだ。

「つまんねー味」

一口目で言われた。オレが作ったきたムースに、神崎さんはそれきり口をつけなかった。

「まずくはねえ、ゼロ点ってわけじゃねえ。でもどういうもんが作りたいか伝わってこねー味だ」
「……はい」

唇を噛んで神妙に頷く。抽象的な、じゃあどうしろっていうんだよって評価をされるのはこれが初めてじゃなかった。こないだもその前の試食会もこんな感じだった。

「……古市、古市」
「何ですか、姫川さん」

内心途方に暮れていたら、オーナーの姫川さんに手招きされた。神崎さんから見えない位置へ移動する。そこで小声で言われた。

「フォローってわけじゃねーけど、神崎はお前に期待してるんだと思うぜ」
「はあ……」
「何たってお前はうちのガトーフレーズを改良したエースだからな」
「あれはまぐれですってば……」

改良なんてつもりもなかった。勤め始めて一年経った今年の春のことだ。ガトーフレーズ、いわゆるいちごショートのスポンジ生地に関して、こうしてみたらどうッスかねー程度の思いつきの提案が採用された。本当に単なるビギナーズラックで、でもそれ以来見習いの中では、よく言えば一目置かれている、悪く言えば上手くやらなければというプレッシャーを感じる。

「それにあいつも言ってただろ、ゼロ点じゃないって。見習いならそれだけでも上出来な方じゃねーの。まあ、あきらめんな」
「そうですね……頑張ります」

ふり返ると見習い仲間たちが、生クリームの泡立てがなってないとか見た目がダサいとか一蹴されていた。自分より下なはずなのにうらやましく感じる。だって作りたいものが伝わってこない味って、技術よりもっと大切な何かを否定されてる気がするのだ。

事務所兼神崎さんの住居に備品を取りに行きがてら、この人にも試食してもらった。

「んー、何かいろんな味するねー」
「マンゴーとパッションフルーツとホワイトチョコのムースです、食感のアクセントにココナッツを利かせていて」
「多い多い多い。聞いてるだけで暑苦しいよー」

ホストの夏目さんは毎日のようにうちのケーキを買っていくお得意様で、信頼の置ける舌の持ち主だ。残さずきれいに食べてくれたが、このムース、店に置いたらリピート買いしてくれますかと聞けば、うーんごめんねーと苦笑された。

「古市っちゃん、オレねー、神崎君の店で夏のお菓子だったらアールグレイのゼリーが好きなの。あれって喉ごしがつるんとしてて、味もさっぱりしてて、限りなくゼロに近いじゃない? 暑い時期はそういうのがいいんじゃないかなー。秋冬は逆にこってりしたの食べたくなるし」
「……つるんとしてて、さっぱり……それもうポカリとかアクエリとか適当に固めるんでいいんじゃないスかね……」
「それってつまりウィダーインだよねー。ってこら、ケーキ屋さんがそんなこと言ってちゃダメでしょ。ちゃんと頑張りなさい」
「……はーい」
「特別おいしいものってさ、やっぱ手間と愛情がかかってるんだと思うなー」

そう言って髪をかき上げる表情が前よりもっとずっとやわらかくて、説得力のある言葉だ、と思う。手間と愛情、かけられてるんだろうな。数日前から夏目さんはこの部屋で暮らし始めた。同居じゃなくて同棲だ、と神崎さんは従業員に説明した。
オレも彼女欲しいな。でも今は仕事で頭がいっぱいで、手間と愛情をかける余裕なんてない気がする。

その日の帰り道、母さんから電話があった。あんたLINEくらい返しなさいよ、と責めるような第一声に思わずスマホを耳から遠ざける。

「今の今まで仕事中だったんだよ」
『それで? お盆は帰ってこれるの?』
「無理。知ってんだろ、お盆とか関係ねーの」
『休めないの? おばあちゃん貴之の顔見たがってるのよ』
「休めませんー。ばあちゃんには後で会いに行くからっ」

その後もあんたは全然実家に顔を出さないだの、夏バテしないようにちゃんと栄養取ってるかだの、心配してくれてるのはわかるけど正直うるさい。充電なくなりそうだから、と嘘をついて切ろうとすれば、待ってほのかが話したいって、と遮られる。

『もしもし、お兄ちゃん?』
「おーほのか、どうした?」
『ねえねえ、お兄ちゃんのお店のケーキでオススメってある?』
「そりゃいろいろあるけど、何で?」
『えへへー、今度彼氏と食べに』

ブツッ、ツーツーツー。あっ、手が滑って通話終了ボタン押しちまった。仕方ないよね手が滑っちゃったんだもん! たった数分の電話で一日分の仕事と同じくらい疲れた気がする。ため息をひとつついてケツポケットにスマホをねじ込み、歩き出したその時だった。

「おい、落としたぞ」
「へ?」

ぶっきらぼうな声にふり向くと、そこにはスマホを差し出している背の高い男。顔を見合わせるなりオレたちは、ほとんど同時にあっ、と呟いた。

「お前確か、ケーキ屋の……フル、チン?」
「何でだよっ! 古市だ古市っ! お前こそケンカ激強の、えーっと、男鹿だよな?」

あちこち跳ねた黒髪、鋭い目つき。前会った時は制服で、今日は違うけど、わかる、覚えてる。
ちょうど一年前、こいつは不良とのケンカの中で、お姉さんへの誕生日ケーキをダメにしてしまった。オレはそこにたまたま居合わせた。そんで作り直してやったのだ。店が閉まった後の急ごしらえだったからスポンジは市販の、場所もオレのアパートだったけど。

「あの後大丈夫だった? お前の姉ちゃん、納得してた?」
「喜んで食ってたぜ、あんときはマジで助かった」
「そっかー、ならよかったー」
「よかったーって、お前のんきだな。スマホバキバキだぞ」
「マジで!?」

どうやらポケットに入れたつもりで落としたらしい。男鹿から受け取って確かめれば、スマホの画面には無数のひびが入っていた。ひい、買ってから大して経ってないんですけど。思わずムンクの叫びみたいな顔になっていると、ぷっと噴き出された。

「オレたちが会う時って、必ず何か壊れてんな」
「笑いごとじゃねーよ……」

明日携帯ショップ行かなきゃ。せっかくの休みだから試作に精を出そうと思ってたのに。がっくりした空気を、盛大な男鹿の腹の音が割った。ぐうううう。あまりのでかさに脱力し、一気にいろいろどうでもよくなる。

「何お前、腹減ってんの? 夕飯食った?」
「食った、メシ三杯おかわりした。でもすぐ腹減る」
「じゃあもう帰って寝ろよ、お前高校生だろ。こんな夜出歩いて、親御さん心配しねーの」
「オレ様の強さで心配なんかいると思うか」
「……まあな」

確かに去年出会った時、こいつは何十人という不良たちをばったばったとなぎ倒していた。

「それに後3キロ歩けば卵が孵る」
「ポケGOかよ……」

スマホを拾ってくれた礼に、そこのコンビニで何か買ってやってもいい。でも、3キロね。ちょうどオレのアパートまでと同じくらいじゃん。

「なあ男鹿お前、甘いもん好き?」
「……好きだけど」

念のため親御さんに連絡させてから部屋に上げた。オレが用意をしている間、男鹿は色違いのラプラスが孵ったと上機嫌で、『フルチン』って名前をつけるとか言ってる。やめろ。

「ほい。店に出せるレベルのもんじゃねーけど」

冷蔵庫を圧迫していた試作品をテーブルにずらり並べると、男鹿の顔はぱあっと輝いた。

「これ全部食っていいのか!?」
「食いたきゃ食いたいだけどーぞ」
「すげー、夢みてー!」
「夢って。んな大げさな」
「だってお前が作った姉貴の誕生日ケーキ、めちゃくちゃ美味かったぜ。それがこんなに食えるなんて、やっぱ夢だろーが」
「……うちのシェフが作ったケーキの方がずっと美味いよ」

そう返しながら、ちょっと潤む目をまばたきでごまかした。だって神崎さんに一口しか食べられず、夏目さんに二度は買わないと言われたムースを、こいつは6つも平らげてくれたんだ。
男鹿はごちそうさん、と手を合わせた後で、こうやって試作したものはいつもどうしているのか聞いてきた。

「オレが食べれる分は食べるけど、残りは捨ててるよ……もったいないけどさ」

ばつが悪い思いで答えれば、がしっと両肩を掴まれた。

「古市、これからはそういう時は、絶対にオレを呼べ」

ものすごく真剣な表情だった。

それからは試作品でいっぱいの冷蔵庫が、男鹿が来るたびゼロになる、そんな日々が続いた。男鹿のお母さんはいつも手土産に水出しのアイスコーヒーを持たせてくれた。

「古市、これいっつもの」
「おー、ありがとなー。美味いんだよな水出しのって」
「で、いい加減ガムシロップ買ったんだろうな?」
「あ、悪い忘れてた。牛乳あるからそれでいいだろ?」

男鹿は外では伝説の不良で通ってるらしいけど、オレの前では普通のガキンチョだった。甘いものが好きで、コーヒーをブラックで飲めない。ゲームが趣味で、今はポケGOに夢中だ。

「くっそー5キロも歩いたのにコダックかよ!」
「ははっ、残念だったな。博士に送んの?」
「いや……なんかムカつくから『フルチン鳥』って名前つけて取っとく」
「だからそれやめろって! 古市だ古市っ!」

オレが高二の頃ってもっと大人っていうか、女の子のこととか考えてなかったっけ。マリカーが白熱して泊まることになった夜、こっちから振った恋バナはびっくりするほど盛り上がらなかった。

「あーあ、彼女欲しいなー。男鹿お前、付き合ってる子とかいねーの?」
「いるわけねー」
「好きな子とかー、好きだった子とかー」
「女とかめんどくせーんだよ。つーか古市、お前女子か」

一人でもそもそケーキを食べてた頃よりずっと楽しかった。でも男鹿を呼び続けるってことは、試作がうまくいかないってことでもあった。新商品はなかなかこれというのが決まらないまま、夏の一番暑い時期を迎えようとしていた。

そんな中オレは体調を崩してしまった。夏バテだ。調理場で呼吸が浅くなるのを感じて、慌てて早退させてもらった。アパートへ帰って横になる。晩飯を食べた方がいいのはわかっていながら起き上がる力が出ず、夜になってもそのままでいた。だって冷蔵庫の中にはケーキしかなくて、買いに行かなきゃならない。

「ん……」

玄関チャイムの音を聞いて初めて、明日も来ると昨日言っていた男鹿に断りの連絡を入れるのを忘れていたことに気づいた。這うようにしてベッドを出てドアを開けると、男鹿はげっ、と呟いた。

「どーした古市っ!? 顔真っ青じゃねーか!」

事情を説明すると男鹿はコンビニまで走って冷たいとろろ蕎麦を買ってきてくれた。少しずつすするオレをダイニングテーブルの向かいの席(悲しいことにこいつしか座ったことがない)で眺めながら、男鹿は言った。

「今日所持金六十一円しかなくてよー」
「少なっ! えっ? てかじゃあこの蕎麦とかポカリどうやって買ったんだ?」
「ガキの頃からずっと財布に一万円入れてんだ。本当の本当に大事な時だけ使えってお袋に言われてる」
「……使ったのか?」
「おう。今日、生まれて初めて使った」

得意げににっと口の端を上げる。そのまっすぐさが胸に刺さって、思わずぽろぽろ泣いてしまった。男鹿は本日二度目の大慌てで、腹痛てーのかとか蕎麦まずいのかとか騒ぎながらオレの頭をぐしゃぐしゃ撫でる。小遣いやりくりしてる年下に慰められてる情けなさと、その手のひらの大きさとあったかさがやさしいのとで涙が治まらない。
少ししてふと撫でる手が止まった。男鹿の側に置いてあったオレのスマホにLINEの着信があったらしい。画面を見て男鹿は低い声で言う。

「……女?」
「いや、妹」

引き寄せると差出人はほのかだった。見るのは明日でいいや、だって一行目が『タピオカ行ってきたよー』だし。
間が空くと撫でられていたことが恥ずかしくなってきた、涙も引っ込んだ。そそくさと食器を片づけ、そろそろオレ寝るな、と電気を枕元だけにする。男鹿はずっと何か考え込んだような顔だった。

「今日はありがとな、男鹿……どうかしたか?」
「……古市、お前、前に聞いただろ」
「何を?」
「好きな奴いるかって聞いてきただろ」

そう言えばそんな話もしましたね、お前は全然つれなかったけど。どうして今急にそんなことを言い出すのか、ベッドに寝そべって仰ぎ見る表情からは伺い知れない。

「好きっつーか、嫁にしてやってもいいと思ったことある奴ならいる」
「……へえ、意外」

何でオレの心ちくって痛んだの。そんな疑問も続く言葉で吹き飛んで息をのんだ。

「『ほのかちゃん』」
「……っ!」
「姉貴が学校でもらってくる、めちゃくちゃうめえ菓子作る奴」
「ほ、ほのかには彼氏が……」
「違げーよ。それ作った奴となら、結婚してもいいと思ったんだ……お前が作ってたんだろ?」

男鹿の目があまりにも真剣で、そうだと返すことも頷くこともできない。でも沈黙が十分答えだった。

「もう泣くな、具合悪くなるまで根詰めんな」
「男鹿……」
「うまくいったのも、いかなかったのも、お前のケーキ……一生、オレが食べてやる」

その言葉はパティシエにとってものすごい威力のプロポーズで、それはもう本当に痺れた。その痺れに任せてなけなしの理性を手放してしまわなかったオレを誰か褒めてほしい。身をかがめて近づいてきた男鹿の唇を、すんでのところで手のひらで止めた。頭の端で『高校生』『未成年』『淫行罪』ってワードが点滅していた。

「……ダメだろ」
「それは何の『ダメ』だ?」
「……っ」
「オレがガキだから『ダメ』? それとももっと別の『ダメ』?」
「っ、男鹿お前……ずるいよ」
「今日はもう勘弁してやる」

ふっと苦笑して体を起こした男鹿の表情は、初めて見る、五歳年下とは思えない大人びたものだった。小遣いを取っておいてると誇らしげだったさっきと比べると、落差が激しすぎてくらくらする。

「とっとと寝ろ。そんで元気になったらもっかい聞くからな、ちゃんと考えろよ」

夢を見た。ケーキの洪水に押し流される夢だ。辺りはむせかえるような甘い匂いで、身動きがとれない。このままじゃ溺れ死ぬ、と思いかけた時、首からナプキンを下げ、フォークとナイフを両手に持った男鹿がケーキをかき分けて現れた。古市、助けに来たぞ! と叫ぶ。苦しいのに笑ってしまった。お前、食べる気満々かよっておかしくて。
どうやら本当に笑っていたらしい。腹筋の震える気配で目が覚めた。外はまぶしいほど晴れていて、部屋はクーラーが効いて涼しくて、体はすっかり調子が戻っていた。ゼロリセットだ、そう感じる清々しい朝で、あいつの唇が近づいてきたのは別の夢のひとつだったんじゃないかと錯覚しかける。冷蔵庫を開ければ残っていたケーキはなくなり、代わりに男鹿がいつも持ってくるボトルが入っていた。コップに注いでごくごくっとあおる。

「……うまー」

きりっと苦くてコクのある水出しコーヒーが乾いた喉に染み渡る。冴えた頭で思うことは、具合が悪かったから覚えてないでごまかすのは簡単だけど、あの言葉だけは夢であってほしくない、それだけだった。

――お前のケーキ……一生、オレが食べてやる。

男鹿はまた返事を聞くと言っていた。昨日まで弟みたいに思っていた奴に急に男の顔をされて、同じく男のオレはすぐには答えは浮かばない。でも美味しいケーキを食べさせたいと思った。うまくいったのもいかなかったのも、一生食べてやると言ってくれたあいつに。あいつが喜ぶケーキが今オレが作りたいケーキだった。ケンカ超強くて、趣味はゲームで、生意気でガキでやさしくて時々大人な、コーヒーをブラックで飲めない……あ。

「水出しコーヒーのブラン・マンジェか」
「単純にゼリーにするんじゃなくて、コーヒー豆を漬けた牛乳でブラン・マンジェを作ったのか。考えたな」
「ゼリーだとアールグレイのゼリーと被るかなと思いまして」
「けっ、被るだなんて百年早えーわ」
「若い才能への嫉妬は見苦しいぞ神崎。で、採用でいいんだな?」
「やった、マジっスか!」
「アイディアだけな、レシピはちょっといじるぞ」
「じゃあ古市、名前つけろよ」
「え? 普通に水出しコーヒーのブラン・マンジェでいいですよ」
「長い。それは説明に書くから、しゃれた名前つけろ」
「記念すべき初めてのお前のケーキだな」
「じゃあ……『ゼロ』で」

ゼロ点じゃないケーキ。夏はゼロに近いお菓子がいい。男鹿がゼロにしてくれた冷蔵庫。そして、ゼロリセットした朝に生まれたブラン・マンジェ。オレなりの手間と愛情。
横文字を覚えられなくて、このお菓子を『コーヒー味の牛乳プリン』と呼ぶ十六歳のあいつは、言うなればマイナス二だ。唇を受け入れるかどうかは、十八歳になったら、ゼロになったら考える。それまでは合コンにだって行ってやる、はっはっは。でも途中で帰ってるじゃん、もう答えは出てるんじゃねーの? って脳内古市がささやくが、無視することにする。