ウェザーリポート

※高1春、ベル坊が来る前

真新しい革靴を適当につっかけて昇降口を出ると、雨が降っていた。
遅れてついてきた古市の、お前かかと踏むなちゃんと履け、なんて説教は流して空を指させば、あーやっぱ降ったか、と返ってきた反応は想像より落ち着いたもんだった。

「降水確率80%。朝テレビで散々言ってただろ」
「知らねー」
「お前なあ……」

ため息をつきながら向けた視線の先は傘立て。朝入れた傘がそのまま残っているはずの場所。
しかし、ここは石矢魔高校だ。
県下一の不良高、古市いわく人を人とも思わないクソヤローどもの巣窟。

「……やられた」
「残ってたら奇跡だよな」

特徴のない傘ほど盗られやすいって聞くけど。古市の傘はまさに普通のビニール傘だったらしい。
でもまあ、めちゃめちゃ高いブランドもんとかでも盗られるだろここなら。むしろラッキーとか言って人気なんじゃねえの。

「男鹿は……」
「持ってきてねえぞ」
「だよなあ……やだなあ濡れて帰んの」
「やられたらやり返せばいいんじゃねーの」

残ってる中から、目についた青いビニール傘を引き抜く。
古市は一瞬顔をしかめたが、あきらめたのか横から手を伸ばした。

「……それ、女の子のっぽいからこっちにしようぜ」

いくつか留め具の外れたぼろいビニール傘ひとつに身を寄せて、花を散らす雨の中に踏み出した。

ひとりだったら水たまりなんて蹴散らして行く、けど。
今日はふたりだからおとなしく歩く。
横の古市まで跳ねたら、つくため息は今日何度目になるだろう。
きっとまだ、ぎゃあぎゃあ怒るような元気はない。

霧にけぶる桜を、こいつと見るなんて思ってなかった。
一足先に推薦合格を決めた古市は、オレの底辺偏差値からの受験勉強に付き合いながら、まあ放課後とか、たまには遊ぼうぜって笑った。
けどそれはこんなすぐ、始業式の翌日なんて意味じゃなかったはずだ。

進学校の制服を着た古市が石矢魔まで出向いたら、待ってる途中でからまれちまう。
だからきっと居心地悪くも迎えに行くのはオレだったはずだ。
他の奴らが柄の悪いオレを遠巻きにする中、校舎から出てきた古市が笑うんだ。おっまえ場違いだなあ、なんて眉を下げて。
違う生活の話で盛り上がるはずだった帰り道は、数ヶ月前と変わらず、同じものしか見ていないせいで話題がない。

「……お?」

ふと気づけば雨が地面を叩く音が聞こえなくなっていた。だいぶ弱まってきたらしい。
わずかな身長差を理由に持たされていた傘をちょっと上げて、もうささなくていいんじゃねえの、言おうと横の古市をうかがった。

「あ、あたしめっちゃ今フィレオフィッシュの気分」
「ばっかテリヤキに勝るもんなしだろ」
「げっオレ80円しかねえ何も食えねえっ」
「昔ハンバーガー69円だったらしいよ」
「つーかなんでハンバーガーとチーズバーガー値段変わんないの」

はかない色の瞳は、色とりどりの傘をたたむ集団へと向けられていた。
ハンバーガー屋に入ろうとしている、高校生の男や女。
そろってひょろひょろのからだを包むブレザーは、古市が本当は入るはずだった高校のもんだった。
きっとこいつも似合った。キャラじゃないから、と入学式だけで着るのをやめた学ランより、ずっと。

オレのケンカに巻き込まれて、古市は推薦を取り消された。
さすがに今までのすり傷なんかとは違って、しゃれになんねえ出来事だったから、こいつだけじゃなくこいつの家族にも謝りに行った。
親父に何度も土下座させられたオレに、気のいいこいつの両親は、まあまあと苦笑いした。

『そんなに気に病まないで下さい。辰巳くんだってそんなつもりじゃなかったでしょうし。一年浪人して、入り直すってやり方もありますし』

来年受験し直す、という選択肢は、中学の教師も言ったことだった。
誰も二次募集をしてる他の高校、例えば石矢魔、でもいいじゃないかなんて、言わなかった。
だから古市が石矢魔に行く、と言ったときはみんな驚いた。もちろんオレもだ。

『オレ、石矢魔に行くことにしたから』
『は? なんでだよお前なら来年』
『うるせえ、決めたんだよ』

あきらめんなよ、あんなに頑張ってたじゃねえか、なんて口が裂けても言える立場じゃなかった。
それどころか、重ねて理由を聞くことさえできなかった。
黙るだけのオレに、古市は情けないんだけどさ、と呟いた。

『……オレ、あの高校、めちゃめちゃ入りたいって言ってさ。夏期講行かしてもらったり、夜食作ってもらったりもしたのに。思い浮かばねえの。どうしてもあそこじゃなきゃダメだって理由。一年浪人してまで入りたい、って気力ない……情けないけど』

だから石矢魔でいいんだよって笑ってみせたけど、声は震えていた。
原因のオレを責めるのもそこそこに、あいつは一番自分を責めていた。
でも、んな風に思い詰める必要なんてあるんだろうかって思う。
まなざしの向こうの、へらへら笑う高校生たちのいったいどれだけが、どうしてもなんて理由を持ってあの制服を着てるっていうんだろう。

「……グラコロって今ねえのか」

たたみかけた傘をまた開いて、立ち止まっていた古市の横を歩き出す。
もう降ってないけど、まだ雨はやんでない、お前の中では。

「あれって秋とか冬じゃなかったっけ」

つーかお前ほんとコロッケ好きなあ、苦笑いして、小走りで追いついた古市が並ぶ。
オレは勝手な自分の都合だけ言えば、お前がそばで笑ってんの、嬉しんだよ。
その笑顔の下の思いなんて、気づかないふりでいよう。
マジで謝ったり深刻になったりすんのなんて、柄じゃない仲だから。鈍いオレの方が、お前気ぃ楽だろ。
……卑怯だなってわかってる。
本当に鈍いより、鈍いふりは最低だなって、思ってる。

☆ ☆ ☆

中学んときと変わらない分かれ道で、男鹿に手を振った。
いつの間にか雨はやんでいたから、パクってきたビニール傘は押し付けた。さしてるとこ持ち主の石矢魔の奴に見つかって、ボコられんのやだし。

一度背を向けたけど、ふと何の気なしにふり返る。
入学して二日で早くも話題になってるデーモンは、ケンカの種だなんて気にしてない様子で、閉じた傘で水たまりをかき混ぜながらふらふら歩いていた。

「ぷっ……相変わらずだな」

苦笑いで思わず上がったほおは、すぐに固まった。
男鹿は立ち止まって、水たまりをじっと眺めていた。
いつもふんぞり返っている背中は、力なく丸まっている。

男鹿のケンカに巻き込まれて、推薦合格は取り消しになった。
被害者のオレは、はばかることなく思いっきりへこめたけど。
あいつだってめちゃめちゃ自分のこと責めてんの、わかってた。
でもオレの前でそんな姿見せちゃいけないって、気にとめないふりしてんのも、全部。

そりゃショックだったよ。
さすがにさっきみたいにあの高校の奴ら見たら、あーあって思っちまうけど。
でもここまで来て、自分で選んだんなら、ずっとぐずぐず言っててもしょうがない、それなりに石矢魔で楽しく過ごすやり方、探そうと思ってんだ。
そんでたぶん、それにはあいつが必要なんだ。

☆ ☆ ☆

強くなろう。

水たまりに映る情けない顔を見つめながら、男鹿は思った。
古市が割りきれない思いを押し殺して、それでも横で笑顔を作るなら。
あいつの覚悟を守りきろう、強くなろう。

強くなろう。

立ち止まる男鹿を振り切るように歩き出しながら、古市は思った。
男鹿がオレの強がりを見るたびに、自分を責め胸を痛めるなら。
早くこの笑顔を本物にしよう、強くなろう。

予定になかった帰り道。
風が冷たくなってグラコロバーガー食べる頃には、お互い心から笑えるように。