ロマンスのスタート

秋じゃないのにモンブランを食べたがったり冬じゃないのにアップルパイを食べたがったりする客はいる。前者に関しては声がでかすぎてうちの店では年中真夏も置いている(案外売れる)。

「神崎さーん、お先失礼しまーす……ってそれ、今時期シャンパンのムースッスか? 店に置くんですか?」
「……いや、ちょっと食いたくなったから作ってる」

古市が不審がるのもおかしくない。白桃とフランボワーズが入ったゆるいシャンパンのムースをスポンジでくるみ、さらにバターたっぷりのマール酒のムースを重ねたこのケーキは、本来秋冬に出しているものだった。やわらかすぎてこんな暑い時期はぐじゅぐじゅになりやすい。厨房の冷房を寒いくらい利かせて作業していた。

「シャンパンっていえば、今日夏目さんがガトーフレーズ7号買っていきましたよ。夏目さん誕生日なんだそうで、お祝いパーティやるからって。いいっスよねー、お酒飲んで女の子に祝ってもらって稼げる商売」
「あ? 転職するか?」
「せ、世間話ですよう。お疲れさまでーす」

ドアが閉まる音が聞こえてひと息ついてから、集中。ムースの上にチョコレートを垂らしツヤッツヤにコーティングする。飾りの金箔もそーっとバランスよく。普段だって丁寧にやってるつもりだが、今日はその十倍丁寧だ。
なんてったって男なら気合いが入る、この季節外れのケーキは恋人からのリクエストなんだから。どんな女と飲むウン十万のシャンパンより、オレの作るシャンパンのムースが一番美味いって言わせてーじゃねーか。
そんな意地と恋心がこれまで、オレのパティシエとしての腕を磨き、店を大きくしてきた。

* * *

夏目と出会ったのは今から四年前、二十三歳の時だ。
まだ親父がシェフだった頃。東京に修行に出た兄貴から家を継がないという宣言と、製菓の同級生で会社を興した姫川から店を買いたいという話が同時に来て、オレはどちらも現実味がなくぼんやり過ごしていた。

「すいませんシェフ、喫茶の方でカップルがもめてて、女の人がすごい大声で怒鳴ってて……」

そんなある日、ホールのバイトが仕込みをしているオレたちに助けを求めてきた。

「一、行ってこい」
「へーい」

金髪で目つきが鋭く、ボディピアスが趣味のオレが行けばだいたいのいさかいは収まる、親父に促されて喫茶スペースへ向かう。改装前の店は狭く、女が激昂している席までは厨房を出てすぐだった。

「あのー、恐れ入りますが他のお客様のご迷惑になりますんで……」

オレがそう声をかけた瞬間、事件は起きた。

「もう信じらんないっ!!」

女は立ち上がるとテーブルのグラスをひっつかみ、向かいに座っていた長髪の男に頭から水をぶっかけた。そしてヒールをカツカツ鳴らして店を出ていった。

「あんた……大丈夫か……?」

あまりの出来事に敬語を忘れた。郊外のケーキ屋でこんな修羅場初めてだった。
残された男は濡れた髪をかき上げた。初めて顔が見えた。そして困ったように眉を下げて笑った。

「お店濡らしちゃってごめんなさい。それに、お恥ずかしいところを見せてしまって」

その笑顔で電流が走った。
突然だがパティシエは甘いものがめちゃくちゃ好きじゃないとやってけない商売だ。試食を食べ余り物を食べ、一日中甘い匂いに囲まれて過ごすのが苦じゃない奴しかできない。
何を言いたいかというと、水をかぶった男は何もかもが甘かった。滴のしたたる髪のすき間から見える顔立ちも、飴色の瞳もへにゃりとした表情も、歌うような節のついたやわらかい声も。
だからこれはただの一目惚れじゃなかった。タイプとか好きだとか飛び越えて、オレには赤い糸が見えていた。だって甘いものに一生をかけるパティシエと、今まで見たことがないくらいとびきり甘い男。
けどそんな劇的な出会いを前にして、オレの口から出た言葉は何とも間抜けなもので。

「……ケーキ、おかわりするか?」
「こら一! ケーキよりまずタオルじゃろ!」

男の前の皿にはシャンパンのムースが載っていて、水に濡れてしまっていたから。
様子を見に来た親父にどやされてタオルを取りに行き戻ると、男はもう店を出ていた。残されたきれいに空になった皿を見て、これは運命だ、って確信した。名前も連絡先もわかんねーのに、思い返せばおかしいよな。

それからずっと長髪の男の苦笑いが頭から離れなかった。
仕事が上の空になるかというとそうでもなく、むしろ今度あいつに会った時胸を張れるオレであろうとやる気が湧いてくる。根拠なんざないがいつかまた会える気がしていた。
でも一ヶ月が過ぎ、秋冬限定のシャンパンのムースが店頭から消える頃には、あの男は甘いものの神様からの使いだったんじゃねーかなんて妄想するようになった。だってあの運命の出会いから目の前がきらきら輝くように、仕事が楽しいしアイディアも次から次へと浮かんでくる。
もちろんもう一度会いたいしその先ももっと先もしたい。けど欲望より、オレを変えてくれたことへの感謝の気持ちの方が強くなっていた。

その日は休日で、オレはできたばかりのケーキ屋の偵察に駅ビルへ出かけていた。チーズタルトが名物らしい、でも定番のガトーフレーズは押さえておきたいし、ムース系のお手並み拝見もしたい……けど大の男が三つも食べたら不審がられるだろうか……。そんなことを考えながら上りエスカレーターに乗り、ふと顔を上げた瞬間、ぐっと喉が詰まって変な声が出た。
反対側の下りエスカレーターからあの男が降りてくるところだった。
話しかける? 追いかける? この一ヶ月あんなに思い続けていたのにとっさのことに体が動かない。
視線を向けるだけしかできないでいると、あっちもオレに気づいたようだ。すれ違いざま、記憶を探るみたいに少し首を傾げた後、はにかみながら会釈してくる。

「――っ!」

その笑顔に二度目の電流が走った。何が欲望より感謝だ。甘いものの神様の使いだったとしても、オレはこいつをものにしたい。
人をかき分けエスカレーターを猛スピードで駆け上り、てっぺんまで着くと今度は折り返し駆け下りる。
駅前はごったがえしていたが、男の身長は周りより頭ひとつ抜けて高く、明るい色の長髪は見失いようがなかった。それを目印にオレは男を追いかけた。
夕方の待ち合わせで賑わう噴水の前を抜け、赤信号に捕まりそうになりながらも横断歩道を渡りきり、そうしてたどり着いたのは。

(ホストクラブ……!?)

いつの間にか辺りは怪しい店が建ち並ぶ繁華街だった。その中の入り口が地下になっているホストクラブへ、男は確かに入っていった。
そういえばさっきすれ違った時、黒いスーツにワインレッドのシャツって派手な格好をしていた。でも、まさか。

「……あれ? さっきのお兄さんだよねー? ケーキ屋さんの」

店の前で立ち止まっていると、男がチラシを片手に階段を上り戻ってきた。胸には『夏目』と書かれた名札をつけていて、ここの従業員なのは間違いないようだった。

「あはは、こんなところで会うなんて奇遇ですねー。ていうかこないだはすみませんでした、お店であんな騒ぎ起こしちゃって」
「はあ……」
「お兄さん今夜飲むとこ探してる感じですかー? うちの系列店紹介しましょうか、お安くできますよー」
「いや……」

姿、声、初めて知ったきれいな名前。ずっと恋い焦がれていたものがすごい勢いで供給され、オレはキャパオーバーで口ごもってしまった。頭がぐるぐるする。落ち着け。何のためにこんなところまで追いかけてきた。

「連絡先、教えてくれ……あんたの」
「え、それは店の迷惑料とかそういう」
「違え」
「じゃあ個人的に?」
「……そうだ」
「えーと、名前何ていうの?」
「神崎。神崎一だ」

夏目は眉を上げ、呆れたように言った。

「それじゃ神崎君は、オレとトモダチになりたくてここまで追いかけてきたわけ?」
「……っ!」

明らかに不自然でもそうだそうなんだと頷いときゃよかった。でも嘘がつけないオレは黙ってしまった。
なりたいのはトモダチなんかじゃない。心が叫んで脈がドクドク打って、顔が耳の端まで熱くなった。

「あのー……もしかしてナンパ?」
「……」
「なんちゃってー。違うよね?」
「……」
「……マジ?」
「……違くねえ。マジの、ナンパだ」

夏目はひたいを押さえ天を仰いだが、しばらくしてぱっと営業スマイルに切り替えた。

「とりあえずうちの店で飲もっか! オレ実はなりたてのホストなんだよねー。大丈夫大丈夫、男のお客さんもたまにいるし。神崎君シャンパン好き?」
「ま、待てって! 客になりてーわけじゃねーんだよ!」
「何? 今日この瞬間からお付き合いして下さいって話? ちょっと無理がない?」

掴まれた腕を振り払えばさすがに笑顔が消えた。美形の無表情は迫力があってオレは内心たじろいだが、ここまで来たら引くわけにはいかなかった。

「うちの店に来てくれ。オレが作ったケーキを食ってくれ」
「は?」
「あんたの食いたいもん何でも作る。これから店もでかくするしメニューも増やす」
「……オレ、そんなんで釣られるほど甘いもの好きじゃないよ」
「好きにさせてみせる。だから……いつかオレのことも好きになってくれ」

帰り道姫川に電話をした。あいつの会社のグループの傘下に入って、店を大きくするって件だ。これまでずっと渋っていたが、夏目に差し出すケーキを作るためなら手段は選んでいられない。至急話を進めてくれるよう頼んだ。

怖いからやだーとか言って夏目は連絡先こそ教えやがらなかったが、ちょくちょく店に顔を見せるようになった。オレは四季折々あいつが好きなものを用意して待った。
春は桜のロールケーキ、夏はアールグレイのゼリー、秋はかぼちゃのモンブラン。

「水かけられた理由? 長い付き合いの彼女だったんだけど、オレがホストになるって言い出したから。結婚とか意識してたんじゃない? たぶん」
「ホストになる前って何やってたんだ?」
「バーテンダーだよー。ちなみに美容師免許持ってるし、趣味でバンド組んでる」
「3B1H(※付き合ってはいけないとされる男性の職業の頭文字)じゃねーか……!」
「あはは、神崎君はそんな地雷なオレでも付き合いたい?」
「……別に。そういうのって女癖悪いとかだろ。オレと付き合ったらオレ以外見させねーし」
「このゼリーおいしいねー」
「聞いたんだからちゃんと聞けっつーの……!」

改装して初めてのクリスマスは予約が殺到してうちのスタッフだけじゃ手が回らず、いちごの飾り付けを夏目にも手伝ってもらった。
ぶっ続けで徹夜で作業して店が開くまで数時間の休憩中、オレは厨房の作業台に突っ伏し、夏目はスポンジケーキの切り落としをつまんでいた。

「……夏目ー」
「なーにー」
「美味いか?」

新しいものを作るたびにオレはそう尋ねた。そんでこいつがおいしいよーって答えるところまでがセット。そのとびきり甘い笑顔を見れば、苦労は報われ不安は消え失せ、次へのやる気に満ちあふれる。
その時も疲れを吹き飛ばそうと、いつも通りのやり取りを期待して聞いたのに。

「好きだよ」
「……ケーキが?」
「ケーキも。好きだよ神崎君。降参、オレの負け。頑張ってるとこ、かっこよかった」

へろへろの体をぎぎぎと起こす。腕を伸ばして抱きしめた。約一年がかりでようやく一世一代の片思いは実った。けど。

「お前今日言うなよなー……」
「ごめんね」
「時間ねえ……体力ねえ……」
「うん」
「いろいろしてえ……」
「あはは、大丈夫だって。先は長いよ」

* * *

夜明け前、家(店の二階のマンション)のチャイムが控えめに鳴った。ベッドから這い出て誕生パーティ終わりの夏目を迎え入れる。
やかんを火にかけていると、後ろから抱きつかれた。

「……甘い匂いがする」
「あ? しねーだろ、シャワー浴びたっつの」
「神崎君はケーキ屋さんだからねー」
「じゃあてめーの血はシャンパンか」
「ふふ、どうだろ? そういえば今日さ、お客さんから教えてもらったんだけどね。その人は短歌が好きで、何でもシャンパンの短歌があるんだって」
「シャンパンの短歌?」
「シャンパンはお祝いごとの時だけじゃなくて、辛い時にもいいんだよっていうの。何でかっていうと、きらきらきらって笑う音がするから、って」

なかなか仕事が定まらなかった夏目だが、ホストは天職だったらしく、四年経った今では二号店の店長を任されるまでになった。
店の様子は話で聞く範囲でしか知らない。けど、うまくやってるんだろうと思う。だってこの短歌の話なんか、普通ならコールに紛れて聞き流されてしまうようなかそけき話題だ。それをナンバーワンのこいつがちゃんと心に留めてるあたり、いい店なんだろうと思う。
アルコールをたらふく摂ってきた夏目の体は熱く、冷房の利いた部屋ではそれが逆に心地いい。抱きしめられるままに身を委ねていると湯が沸いた。丁寧に淹れてやる紅茶は、これから眠るこいつのためにカフェインレス。よく冷やした皿に切り分けたシャンパンのムースを載せて。

「ほんとにこのケーキでよかったのかよ、さんざん酒飲んできたっつーのに」
「だってこれが一番好きなんだもん。初めて食べた神崎君のケーキって思い出もあるしねー。いただきまーす」

そう、これはオレたちが出会った日のケーキだ。作りながら思い返していた、あの日の衝撃を、それから振り向かせるまでのがむしゃらな努力を、そうこうしてるうちにただの家業だと思っていたケーキ屋って仕事をいつの間にかすごく好きになっていたことを。
そしたら自然と腹は決まっていた。

「待て。食う前に誕生日プレゼント」
「ケーキの他に?」
「……ああ」

スウェットのポケットから取り出してテーブルの上へ置く。この部屋の合い鍵だった。

「もう今日から帰らなくていい。一緒に住もう」

朝早いパティシエと夜遅いホストじゃ生活時間帯が全然違う。なかなか会えないことも多くて、もっとずっと前から鍵を預けたい気持ちはあった。でもこの部屋は店の事務所としても使っていて、他の従業員も出入りする関係上ためらっていた。

「店の奴らにも話すから。お前と暮らしたい」
「うん。よろしくねー」

夏目は頬杖をついてにこにこ笑っていて……こう、なんだ、もっと何かないのか。ちょっとリアクションが薄すぎねーか。こっちは結構覚悟して切り出したっつーのに。涙浮かべるくらいしてくれたっていいんだぞ。

「でもよかったー、オレ今のアパート来月更新なんだけど、しないって大家さんに言っちゃってたんだよねー」
「……は?」
「神崎君最近やたら部屋片づけてたじゃん? だから今日、言われる予感してて」
「オレが言い出さなかったらどうするつもりだったんだよ!?」
「えー、普通に引っ越し? でなきゃ転がり込んでたかも? まあその時はその時でしょー」
「てめーそういうとこだぞ! 水ぶっかけたくなんの!」
「あはは、懐かしいねー。ところでお茶冷める前にケーキ食べていい?」
「勝手に食え!」
「いただきまーす」
「……夏目」
「んー?」
「美味いか?」
「うん、すっごくおいしい」

そう言って夏目は笑う。淡いゴールドの水面に沸き立つシャンパンのあぶくみたいに、きらきらきらって。そんな極甘口の笑みを向けられれば、出し抜かれた悔しさはどっか消えてこっちもほおが緩んじまう。
大口の注文に喜ぶ朝も、売れ残りをゴミ箱に捨てる夜も、これからくり返し訪れるだろう。けど横でお前がこんな風に笑ってくれるなら、オレは根っこの大事なものを見失わずにケーキを作り続けていられる。
遅れて口に運んだ誕生日ケーキは、がつんとマール酒が利いていて、シャンパンのムースと果物のコンポートが口の中でとろけ、夏目そのものみたいな味がした。
一年の片思い、三年の両思いを経て、ロマンスは第三シーズンがスタート。とりあえず今のセミダブルベッドは手狭なので、次の休みはイケアに行くことにする。

『シャンパンって辛い時にもいいんだよ きらきらきらって笑う音する/響一』