冷蔵庫には金麦で

シフトを組む側になったのをいいことに、スケジュールを遅番で埋め尽くしても夜はなお長い。
高校を出てからずっと住んでいる部屋は一階で、網戸だけ閉めた窓ごしには、雨にうたれるあじさいの紫が浮かび上がっていた。
神崎君の携帯をいじる音や、ひくい寝息が聞こえない闇は世界にオレひとりみたいで、テレビの向こうの深夜ニュースのキャスターの、感情なんてないみたいな顔にすこし救われたりする。
その抑揚のない声が、きみの名前を呼ぶんじゃないかって怯えてる。
本当は、ちょっとだけ待っている。
真似してストローを噛みしめたあのジュースは、まとわりつくように甘かった。

あの日も雨だったね。
いつものラフな格好じゃなく、葬式みたいな真っ黒なスーツを着て、神崎君はオレの部屋を訪れた。
どうしたの、なんて言葉をさえぎるようにキスをして、ひどく苦しそうにオレを抱いた。
先に起きて寝顔を眺めるのはいつもオレだったのに、そのときだけはまどろみから抜けたら神崎君が髪をすいていた。

「起きちまったか。先に出るつもりだったのに」
「……どっか、行くの」

神崎君は答えなかった。
笑ったつもりの顔は完全に失敗に終わって、ゆがんだ目もとは今にも泣きだしそうだった。
ただの飾りだったやくざの息子という肩書は、いつしか後戻りできないほどに神崎君をひたしていた。
煙草のにおいが染みついたジャケットは左側だけが不自然に沈んでいて、ひとを殺す道具が入っているのだった。

「いつ帰ってくっかわかんねえから、待たなくていい」
「……そんなに長くひとりにしたら、オレ神崎君のこと忘れちゃうかもよ」
「そうしてくれっと助かるな」

もう行く。ぎし、ときしむ音がして、神崎君はベッドを降りる。
黒いスーツの背中が、けして広くない背中が、ついさっきまできっと爪痕が残るほどきつくかき抱いていた背中が、少しずつ遠ざかっていく。
くちびるを噛みしめるオレの代わりに、雨音は泣き叫ぶみたいに響いていた。

「夏目」

ふいによみがえる放課後のうす汚れた廊下。昇降口と4階の教室の窓際、あっちとこっち。
周りに比べて低いのを気にしていた背丈もだいぶ伸びて、いきなりヨーグルッチ買ってこいなんてわがままも言わなくなったくせに、どうしてこんなときだけあの頃みたいにオレの名前を呼ぶの。

「オレ、お前のこと、」
「神崎君!」

これっきりみたいなことばの続きを聞きたくなくて、だるい腰も構わず玄関へと走った。
靴箱の取っ手に引っかかっていたビニール傘をつかんで、ぽかんとした神崎君の鼻先に突きつける。

「……オレ、待ってるから。神崎君がなんて言おうと、絶対忘れないで待ってる。めちゃくちゃひどいケガしてても大丈夫なようにばんそうこう買い込んで待ってるから、そのときは一番にオレのとこ来てよ」

貸すから絶対に返してね、と節ばった手に傘をぶつければ、ちょっとためらったあと、力強く奪い取られた。

「……馬鹿。ばんそうこうなんてどうだっていいから、ゴムだけ用意しとけ」

去り際にあんなこと言うから、オレはいつまでたっても神崎君のことすきなままだ。
傘を返してよ。いつもみたいにさまにならないことして、無神経なこと言って、嫌いにならせてよ。
そんでまた不意打ちみたいにかっこいいとこ見せて惚れ直させて、そんなくだらない繰り返しでいてよ。

おかえりを言わせて。コンドームはピラミッドも、ドミノだって作れるくらい買ってあるから。

* * *

「夏目!」

うつぶせにしていた顔を上げると、教室の机に足を投げ出した神崎君がヨーグルッチのパックをストローで支えてぷらぷらさせてた。
雨の音は聞こえなくて、耳に届くざわめきは、新しいバイトがよー、とかベル坊のせいで背中がむれるとか、いつもの話題に満ちていた。

「何起きたと思ったら泣いてんだよ、きもちわる」

顔をしかめる神崎君には夢の闇のかけらもなくて、馬鹿で暢気でしょうもなくて、すきで、涙が止まらなかった。
腕を伸ばして頭をかき抱く。ありったけの力を込める。
うおい城山、こいつ剥がせ!なんて怒鳴るけど、離してやらない。

絶対に、離してやらない。