君としたたった一つの恥ずかしいこと

※高三の夏休み、東条戦後。入院中の神崎君を夏目が見舞うお話。たぶん付き合ってない。
※東条戦後~聖石矢魔転入の間に、夏目が誕生日を迎えたような感じで書きましたが、よく考えると東条戦は8/2より後っぽいですよね……。

近頃のオレはお弁当作りに夢中だ。
冷ましておいたカレー味の夏野菜炒めを、色やかたちの見え方を考えながら詰めていく。
梅しそとチーズの肉巻き、紅しょうがとねぎの入った卵焼き。栄養のバランスよく、味にアクセントを効かせて暑い日も食べやすいように。
海苔とかハムとかちまちまくり抜いて作るキャラ弁も、けっこう楽しかったんだけど、一度持って行ったら神崎君がすごく嫌な顔したからやめた。
けど桜でんぶでおっきなハート、はいつかやってみたいんだよねー。
なんて思いながら冷たいジャスミン茶を水筒に注ぎ、残りを一気に飲み干せば、夏のだるいからだに痛いくらいしみわたった。

誰かのためにご飯を作り、誰かがそれを食べてくれるっていうのは、ものすごく深く根っこのところでつながりをくれる。やすい愛のことばをささやきあうよりたぶんずっと。
ゆかりと野沢菜のおにぎりはコントラストがうつくしい。
城ちゃんはきっと見事だな、なんて大げさな言い回しでほめてくれるはずだ。

『夏目が女だったらよかったのにな』
『そんで顔もちがくて性格もこんなじゃなかったらな』
『ふたりともそれオレ原型とどめてないんだけどー』

こないだは牛乳かん持ってったんだっけ。みかんの缶詰入りの。
ふと頭をよぎった三人での会話が、ようやく久しぶりの笑みをくれた。だいぶ長いこと真顔で思いつめていたから。

薄むらさき色の手紙は引き出しの中にしまってある。
びりびりに破いて捨ててもよかったんだけど、困らせようとか傷つけようとかそういうつもりで書いたものじゃないことはオレが一番知ってたから、できなかった。

『十八のオレへ
 十八のオレはぬるいしあわせに逃げこむようなことはしないって、信じてる』

*  *  *

病院のカーテンは薄っぺらくて、閉め切っても八月の終わりの日ざしが容赦なく差しこむ。
相沢と陣野は化け物みたいな回復力の大将に追いつくべく、早々に退院した。
姫ちゃんはオレがお見舞いに行くとうるさそうに部屋を出ていってしまう。ちょっとくらい分けてあげるのにね。
がらんとした病室では、神崎君がつまらなそうにベッド脇に積まれた任侠漫画をめくっていた。

「城ちゃんは?」
「看護婦のナントカって女んとこ行ってる」
「えっ今夜はお赤飯って感じ?」
「城山は本気みてえだけど脈はねえな。こないだお前が来るの楽しみーとか言ってやがったあのアマ」
「あはは、オレって罪なオトコー」

あんな見る目ねえ女に城山はもったいねえ、ってなにげにひどい言い草。
んなことより今日のメシなんだ、と腕を伸ばす神崎君の声は、ぶっきらぼうなようでわくわくしてるのを隠しきれてない。

「城ちゃん待たないで先食べちゃおっか。今日はね、ゆかりと野沢菜のおにぎりとー、カレー味の夏野菜炒めとー、梅しそとチーズの肉巻きー。あと卵焼き紅しょうが入ったやつだよ。前神崎君好きって言ってたよね」
「ったく、病院のメシもこんだけうまきゃいいんだけどな。なんかぬるいし味薄いし、食えたもんじゃねえ」

サイドテーブルにタッパーを並べると、当たり前のようにいただきます、と手を合わせる。
ご飯食べるときは無駄口叩かないとことか、箸の使い方がきれいなとことか、神崎君の顔に似合わず行儀がいいとこはとてもいいと思う。
にこにこして眺めてたら、メシまずくなんだろお前もとっとと食え、って怒られた。

「石矢魔壊れたじゃん? オレたち二学期から聖石矢魔ってとこ通うことになるらしいよ」
「聖石矢魔だあ? 坊ちゃんばっかの超エリートじゃねえか」
「なんかいくつかの学校にばらばらになるんだって」
「落ち着かねえな……めんどくせえ、卒業までオレはここで寝てる」
「んんー、そうは言っても神崎君、一学期も入院してろくに行ってないからねー。出席日数やばいんじゃない? 成績もやばいけどそれよりもまず」
「……うち出席だけは厳しいかんな」

行ってもたいしたことしねえのに……最後に教科書開いたのいつだ、と神崎君がうなる。
まあオレが教えてあげるよって出がけに少し凍らせてきたグレープフルーツを渡した。
鞄からのぞいた原稿用紙も、一瞬ためらったけどベッドの上に広げる。

「あんだこれ」
「夏休みの宿題。作文」
「やるわけねえだろ、小学生か」
「これ書かないと聖石矢魔入れてくんないってさ」
「ぐっ……くそ、あんだよ、テーマ」

顔をしかめたのは歯にしみる冷たさのせいか、はたまた自分の素行をかんがみた末に宿題をせざるをえないと判断したせいか。どっちもだろうな。

「テーマはね、『二十歳の自分への手紙』」

*  *  *

中学に入学した日に渡された、薄むらさき色のびんせん。
将来の夢とか、今自分が好きなこととか、自由に書いてみようと若い女の教師は言った。
きっとみなさんは立派な大人になってるだろうけど、十八歳っていうのは高校卒業を控えていろいろ悩む年齢だからと。

くだらないと思った。
夢中になれるものもない代わり、オレはたいていのことは人並み以上にできた。
将来の自分なんて、今まで通りそつなく何でもこなして周囲の期待に応えて、衝突もなくひらひらへらへら笑ってるんだろうと思った。
つまらないと思った。

十二歳だった。
すべてを受け入れたみたいなふりして、実はぎりぎりだったんだろう。目の前のものに価値があるとは思えないけど、それ以外に知らなかった。
今は求められるままにがんばってるけど、もし耐えられずに楽であることをしあわせだと思いこむような大人になっていたらどうしよう。
それは当時のオレにとって、つまらないレールの上を歩くよりも怖いことのように思えた。

私は絶対に見ません、と教師は言った。十八歳の誕生日を迎えたみなさん自身だけが読むのです、と。
やりたいこともなりたいものもなかった。
やりたくないこととなりたくないものを書くために、オレはぎゅっとシャーペンを握った。

『もちろん、今みたいながまんを続けていくのは苦しいってわかってる。でも、そのときのつらさから逃げるために楽な方に流れたら、あとで絶対もっとつらい思いをすると思う。もしあきらめたときは、逃げたって認めてほしい。それがしあわせなんだと思いこむばかにだけは、なってほしくない』

*  *  *

「『りっぱなヤクザになりたい』ってコレ神崎君、七夕の短冊じゃないんだから」

こんなの朝飯前だ、と数秒でつっ返された原稿用紙には、汚い字で一行きり。しかもマス目なんて知りませんとでもいうように、あろうことか横書きだ。

「あぁ? めんどくせえな。二十歳の自分なんて二年後だろ。どうせたいして変わってねえよ」
「どうだろうね、少なくとも高校生じゃないわけだから。どうにしろこれじゃダメでしょ、なにもかもダメでしょ、神崎君文才ないね」
「うっせえなあ! そもそもお前がんな風にガン見してんのにまともな作文なんて書けっか!」
「ハイハイ、じゃあオレは見ないからまじめに書いて」

もう一枚原稿用紙をひらりと放ると、オレは隣の姫ちゃんのベッドに寝っ転がった。さすが御曹司、なんかふわふわするこの布団。
神崎君がまじめにシャーペンを走らせ始めたので、積まれた任侠漫画から適当な巻を抜きとって適当なページを開く。
主人公のヤクザが面倒を見てるホストクラブを訪れたところだった。

「そのホスト、なんかお前に似てんぞ」
「マジで? これからこのヤクザと恋に落ちんの?」
「勝手にホモ漫画にすんな」
「あっ死んだ、ホストもう死んだ。ひっどいしかも超どうでもいい死に方じゃんっ」
「知ってる」

原稿用紙に目を落としたまま、神崎君がくつくつと笑う。
低く鳴るのどに、敵わないなあと思わず赤くなったほおを手の甲で押さえた。
かっこつけようとするといつも空回りできまらないくせにどうでもいいとこで無駄にかっこいいので、いつも不意打ちをくらう。
ささいなやりとりで注ぎこまれるあったかさはささいじゃなくて、あふれ出しそうなくらいオレの心を満たして乱す。

「……二年後って、あっという間でなんも変わってないような気するけど、きっとオレたち全然違うんだろうね。だって高校入ったのが二年前だもん……違うよきっと」

オレの言葉に神崎君は答えなかったけど、こっちをちらっと横目で見たのだけはわかった。

漫画のホスト殺人事件がひと段落ついたあたりで、城ちゃんが部屋に戻ってきた。
看護婦のナントカさんにふられたのか、おさげが心なしかしゅんとして見える。

「どうだったよ例の看護婦との首尾は。まあ見たとこダメだったみてえだけどな」
「神崎君デリカシーなーい。この世にはミラクルって言葉があるじゃんねえ、城ちゃん」
「夏目お前の方がデリカシーない。あのひとは誠実なひとだった……心に誓った婚約者がいると言われたら、応援するほかないだろうな」

先ほどその『誠実な』看護婦さんがオレのことうわさしてたって聞いたばっかだったから、たそがれる城ちゃんをよそに神崎君はけっと顔をしかめ、オレは思わず噴き出してしまった。
オレ達の態度をいぶかしみながら、城ちゃんは神崎君の手もとに視線をとめる。

「神崎さん、それは何ですか」
「あぁ? 宿題だ宿題。お前もやったんだろうな」
「宿題……?」
「神崎君、のど乾かない? ヨーグルッチ買ってきてあげるよ、行こ城ちゃん」

はてなマークを飛ばす城ちゃんの腕を強引に引っ張って廊下へと連れ出す。
くちびるの前で指を立ててみせれば、なんとなく理解したらしく苦い顔でため息をつかれた。

「ったく……またなにかろくでもないことたくらんでるんだな」
「神崎君の言う『宿題』、城ちゃんはもう終わらせたってことでヨロシク」
「……神崎さんが困ることでなければ、そういうことにしておいてやる」
「城ちゃんは話が早くて助かるよ」
「で、なんなんだ? お前が神崎さんに出した『宿題』っていうのは」

口止めとしておごってあげたバナナミルクをすすりながら城ちゃんはたずねる。
紅茶にストローをさしつつないしょ、と言うと、きもちわるいって一蹴された。

「ねえ城ちゃん、オレが誰かの未来を盗みたいなんて、ずいぶんやきがまわったよね」

*  *  *

バイト先の休憩室で、鞄の中から四つ折りの原稿用紙を開く。
宿題なんかもともとない。石矢魔のヤンキーの二十歳の自分への手紙、なんて、聖石矢魔の先生は興味ないだろう。神崎君がだまされてくれてよかった。
一枚目と変わらず荒い筆跡は目をこらさなきゃ読めなくて、でものたくった文字が意味をなし始めれば思わずふっと笑みがもれた。

『二十歳のオレへ 神崎一

二十歳のオレに言うことなんざ特にない。ここでなんか誓いを立てたとこでどうせ忘れるし、大事なことは書かなくても覚えてるだろ。
ただオレは必死になると周りのことが見えなくなるような気がしないでもないので、それだけは気をつけるように。

今オレがこれを書いてる横では、夏目がごろごろしてやがる。
二年後、二十歳になったオレも城山も普通に想像できるが、こいつだけはどうも浮かばねえ。

城山は大丈夫だと思う。
まじめすぎるとこはあるがしっかりしてるし、よっぽどのことがない限りオレから離れないだろう。
今日あいつは入院先の看護婦にふられたが、そんなこと忘れてるくらいいい女つかまえられてるといい。

問題は夏目だ。
こいつはなにがあっても大丈夫なようでどっか危なっかしい。
めんどくせえしうっとうしいが、いなくなってもきっとこいつのことは嫌でも頭に浮かぶだろうから、いないのにうっとうしいよりは近くにいてめんどくせえ方がましだろ』

オレの横で神崎君がこれを書いていたと思うと、無性にくすぐったい気分になった。
自分のことより城ちゃんやオレのことの方が長いじゃん。
計画性がなくてお人好しで情に流されやすくて、よっぽど神崎君の方が危なっかしいのに、オレはひとりでも全然大丈夫なはずなのに。
誰かに危なっかしいって言われるのが、どうしてこんなに心をあっためるんだろう。

『ところで、』

次の一文に、オレは目を見張った。

『知り合ってすぐの頃、夏目が夜中に散歩に誘いにきたことがあった。公園でこいつはばかみたいにぶらんこに乗って、オレは煙草吸ってた。
夏目は神崎君、ってなんか言いかけて、やっぱいいや、ってやめた。
十八歳のオレはあれがひっかかって気持ち悪くてしかたねえ。

二十歳のオレに特に言うことなんざないが、あの言葉の続きは聞けてればいい、と思う』

眉を寄せる。首をひねる。記憶の引き出しを全開にしても、思い出せない。
神崎君と夜の散歩に出かけたこと自体はおぼろげに覚えてるけど、何を言いたかったのか、むしろ、何か言いかけたことさえ忘れてしまっていた。
それは夜にまぎれて吐き出そうとした悩みごとだったのかもしれない。
一世一代の愛の告白かもしれないし、はたまた本当にどうでもいいことだったのかもしれない。

でも、なんだっていいんだ。
神崎君の中に、オレの言葉を待ち続ける場所があるってだけでうれしいんだ。
二十歳までの二年の間に、何を言おうね。

「アラ夏目くん、何よにこにこしちゃって。ラブレター?」

休憩室のドアを開けたパートのおばちゃんがにやにやしながらからかってきた。
そんなとこ、と返して原稿用紙を鞄にしまう。
とりあえず今日はトマトを買って帰ろう。
神崎君が帰りがけに、明日はトマトが食いたいって言ってたから。

「あの、トマト使ったおいしいおかず、教えてくれません?」

*  *  *

昨日は十八歳の誕生日だった。
中学の教師が言った通り、誰も開けないままあの手紙は未来のオレのもとに届けられた。
ぼんやりだけど思い出した、オレはばかで怖がりで、けどガキなりに自分の守り方を真剣に考えてたんだってこと。
でも違うんだ。そういうことじゃないんだ。
周囲の期待なんて、一度裏切ったらさらに期待を重ねてくれることはなかった。
それよりもオレは、言いかけた言葉の先をいつまでも待ってくれる、たったひとりがほしかった。

あの頃のオレは今のオレを見たら、ぬるいしあわせにひたっているとがっかりするだろうか。
それならオレは、きみが照れるくらいしあわせ自慢をしてやろう。
ぬるいしあわせじゃいやだって言ったのは、ひと一倍しあわせになりたかったからだろ。
それならオレは手にしている。

夢はかなうよ。

title by クロエ