君の犬

※卒業後、城山視点

『久しぶりだな。卒業式から大して経ってねえのに、毎日学校で顔合わせてたせいで、ちょっと会わねえだけでずいぶん会ってねえ気がする』

神崎さんからメールが入ったのは、ふくらみ始めた花のつぼみを、傷つけない程度のやさしさで雨が濡らす三月の終わり。
起きてすることもなくぐずぐずとベッドで丸まっていた朝のことだった。

『今朝、あいつが発った。見送りに行ったんだが、とんでもなく荷物少なくて、大丈夫かよって思ったが笑ってた。お前にもよろしく、だと』

文面を眼で追って、ついに、とため息をついた。
卒業式でオレたち三人の絆はきちんとした形で終わったが、あのふたりの、ただの大将と右腕では片付けられない関係は、学校を離れて半月と少し、結論を出すには時間がかかったようだった。

ただ周りの人間がふたり、手を振って別れただけだ。
そんなの事件なんかじゃない、とるに足らないありふれた出来事だ。
でも、オレにとってはひとつの世界の終わりだった。
神崎さんはきっとこれからも、たまに近況を交わすようなメールをくれるだろう。
遠く離れたあいつだって、なんだかんだで構いたがりだから、手紙の一通くらいはよこすかもしれない。
しかし、もう会うことはないんだろうと思った。
会おうぜ、とか会いたいね、とか言っても、実際会うことはないんだろう。
胸がつまって、少しだけ泣いた。

ふり返れば、ケンカと同じくらい、くだらない遊びに明け暮れた高校生活だった。
校庭で季節はずれの花火をしたり、てんでばらばらの趣味の服屋をめぐったり、ゲームセンターに入り浸ったりした、まるで普通の友人のような思い出は、きっとオレと神崎さんだけではやらなかったことだ。
あんでこんなこと、と文句を言いながらも、誰よりも楽しそうなのを隠せていない神崎さんに、夏目はいつも笑って言った。

『だって、こんな風にできる時間って限られてるじゃん。できるうちに、めいっぱい楽しんどかなきゃ』

その横顔にどこか浮かぶ切実さの意味が、わからなかった。
ただ、悪くないな、とは思っていたのだ。
出会った頃、オレが神崎さんと結びたかった絆とは違う、ずいぶんのんびりしたなごやかな時間になってしまったけれど。
なつめ。
まるい響きをとがらせたくちびるがつなぐ、どんなこわもてが呼んでも甘く聞こえるあいつの名前を、神崎さんや自分が口にするたびに、ぬるい水がたぷんと、胸の中で揺れる音がする気がした。

あいつは、終わりが来ることを、自分が終わらせることを、ずいぶん前から知っていたんだろう。
だから今を輝かせようと、必死だったんだろう。

* * *

卒業式の日、学ランに花をつけた神崎さんは一派としての解散を告げた。
突っぱねるようなもの言いで威厳を保とうとするものの、節々にオレや夏目への感謝がのぞいた。まとまらない言葉がらしすぎて、オレは人目をはばからず号泣してしまった。

『一応派閥だったんだねえ、オレたち』

途中からそんなの忘れてたよ、と夏目は間延びした声でぼやいた。
嗚咽で言葉にならなかったが、ばか、と罵りたかった。
ただの校内の勢力争いのための派閥に、ともだち、なんてものを持ちこんだのはどこの誰だ。
そんなもののせいで、別れは清々しさだけではなく、さみしさまで連れてきた。

神崎さんが組に行ってもついていきたい、という申し出は断られた。
まだ下っ端だから、ろくなとこ見せれねえ、というまたも神崎さんらしい理由だった。
下級生に写真を頼まれて輪から離れようとする夏目に、神崎さんが声をかけた。お前はどうするんだ。

『んー、オレは、春からちょっと遠くに行ってみようかな。なんか目的があるわけじゃないけど、決めてたんだ』

なんてことないように言って、身をひるがえし去っていく夏目に、オレと神崎さんはあっけにとられ眼を合わせた。
進学も就職も準備をしている素振りがなかったから、なんとなく今のバイト先を続けるのだと思っていたのに。

『遠く、ってなんだよ……』

まだ眼を赤くしたオレを気遣いながらも、神崎さんはショックを隠せないようだった。
他の生徒と騒ぐ夏目をちらちらとうかがっている。

『……行ってください』
『あ?』
『オレはいいから、ちゃんと話してきてください』

まだにじむ視界の向こうで、神崎さんが夏目のもとに走り寄り、肩をぐい、とつかんで人気のない方へ引きずっていくのが見えた。
何事かまくしたてる神崎さんに、困ったように、苦しそうに笑う夏目。
ふたりがその後、どんな話をしたか知らない。
オレはその夜、告白してきた下級生とはじめてからだを繋いだ。
親が帰ってこない女の部屋で、カーテンからのぞく月を眺めながら、すうすうと寝息を立てるちいさな頭をなでた。

考えたくなかった、なにも。
三人で過ごしながらも、ふたりの間に立ち入れないものがあったこと。
夏目の眼の奥にひそむ、圧倒的な渇きやさみしさ、暗さなんてものを感じていながらも、それでもぶん殴りたくてしかたなかった。
ひとにふれるのが下手な、でも誰よりぬくもりを欲しがっている、はりねずみみたいな神崎さん。
あの人が手を伸ばせる、あの人に手を伸ばせる、唯一の相手なのに、お前は。
オレがどうしてもできないことをお前はできるのに、どうして離れていくんだ。
からかうような眼、許してもらう気なんてないくせに、ごめんね、とのぞく舌。
それを取ったら夏目じゃないのに、そんなの捨ててあの人のそばにいろ、と怒鳴りたかった。

* * *

高校時代は朝早く起きてからだを鍛えていたオレが、あまりにも無為に日々を過ごすので、家族に気味悪がられて外に出ろと追い出された。
メールを受けた日の雨が嘘のように、風はあたたかく空は澄みわたっていた。
行くところなんて知らなくて、なんとなく聖石矢魔に通うのに使っていた電車に乗った。
春休みで空いている席に身をもたせかけて、ぼんやりしていたらいつも降りていた駅のアナウンスが響く。
反射でからだが動いたが、もうこの街に用はない。

四月からはオレも仕事が始まろうとしていた。
こうやってばらばらのところでばらばらのことをして、かたちのないものを目指して戦いに明け暮れた日々なんて、過去のものになってしまう。
そんな頃もあった、ばかだったと笑う時が来るんだろうか。
今は想像がつかなくても、きっと遠くなく来るんだろう。

終点は海だった。
泳ぐ季節でもないから、眠くなるような日差しの中、浜辺はとても静かだった。
オフシーズンの海に、神崎さんと夏目と来たことがあった。
秋の終わりのことだ、空はくもっていて、寒さに弱い神崎さんは終始不機嫌だった。

オレが壊してしまった砂のトンネル。夏目が一発目からえげつないとり方をする棒倒し。
思いのほか夢中になって遊んだせいで、神崎さんが指輪をなくして日が暮れるまで探したっけ。
結局見つからなかった。埋まっているとしたら、きっとこのあたりだった。

『見つかんないって。波にさらわれたかもしんないし』

最初にあきらめたのは夏目だった。

『あーもういい。別にんな、大事にしてるやつじゃなかったしな』

しばらくして神崎さんも腰を上げた。
ふたりが呆れるくらい、必死になったのはオレだった。

おもむろに浜辺にしゃがみこむ。
そっと指でかき回した砂は、あたたかくやわらかかった。

守りたかった。
本当のところで求めあうのはふたりで、自分がそこに入れないのを知っていても。
不器用で意地を張るふたりは、ふたりきりじゃあまりにももろいから、守りたかった。
あきらめてほしくなかったから、あきらめたくなかった。

波のあたらないはずの足元は、いつしか濡れて色が濃くなっていた。
海の水よりももっと塩辛い水分でしめっていた。
うずくまりしゃくりあげるオレを、散歩の子どもが指さして笑っていた。

この砂浜のどこかに、きらきら輝く指輪が、思い出が埋まっている。
砂にまみれて、波にもまれて、いつしか錆びてくもっていく。
探すのをやめないオレに、夏目がかけた言葉を思い出した。

『いーよもう城ちゃん。波に乗って、どっかの誰かんとこに届いたら、それはそれでロマンチックだし』
『んな知らねえ奴のもんにされてたまるか』

神崎さんはあのとき舌打ちしたけれど。

夏目がどこに行くのかは知らない。
遠く、とあいつが言うのがどれほど遠いのかも知らない。
けど、ゆく途中でたまには、波打ち際を歩けばいいと思った。
あの指輪を見つけるのがあいつであればいいと思った。

どの指だっていいからはめて、ただいまー、腹が立つほどのんきな声で、手を振って帰ってくればいいのにと思った。