旅立ちと少年

※軽い性描写を含むため、十五歳以上の方のみご覧下さい。
※最後の方に想像で書いた夏目母とモブ親子が登場します。ご了承頂ける方のみご覧下さい。

「――続きまして卒業生答辞、神崎一」
「……はい」

金管の一番大きい楽器、チューバっていうんだっけ。あれに似た神崎君の低い、包みこむような声が好きだった。
こういうときの返事、しかも神崎君の普段のキャラを考えたら、くすくす笑いが起きるかと思ってたけど、みんな静かだった。
はい、って短い言葉の響きと、壇上へと一歩一歩向かう姿、全部に威厳があってかっこよくて、誰も茶化すことなんてできなかったんだ。
男鹿ちゃんが石矢魔を背負ってるのとは違う、みんなの心の大将は、やっぱり神崎君だったと思う。
きっと将来、立派な組長になれるよ。

* * *

「ダメだ……マジで全然、一文字たりとも思いつかねえ……」

机の上、真っ白な原稿用紙にほっぺたをくっつけて、神崎君は白目を剥きそうな顔でうめいた。
三月の中旬、他の高校はもうとっくに卒業式を済ませているのに、オレたちはまだ石矢魔にいた。
殺六縁起の頂点・藤と男鹿ちゃんの戦いで割れたガラスや校舎の補修に時間がかかり、特別に式の時期がずれたから。
遠くでの進学や就職を考えてる生徒がいたら困っただろうけど、幸いうちの学校の卒業生の進路は、どっちにしろ地元や近隣が大半だ。
窓の外では桜のつぼみが膨らみかけてるのがわかる。このままだと今年は漫画とかでしか見たことない、桜吹雪が舞う中での卒業式になるかもしれない。

「そんなこと言わずにがんばってよー。オレは超楽しみにしてるよー神崎君の答辞。正直ほんとに、姫ちゃんより適任だと思うなー」
「てめぇクソ他人事だと思って……つーか、姫川もマジふざけんなだよな、めんどくせーからって押し付けやがって……」

卒業式の送辞や答辞って、その学年の生徒会長がやるのが普通なんだろうけど、石矢魔に生徒会なんてものはない。
それで先生たちが考えた条件は、他の生徒が納得するような中心人物であること、そしてできれば成績優秀者。
送辞は邦枝で問題ないとして、答辞の候補にまず挙がったのは姫ちゃんだった。確かに東邦神姫の一員、成績だって本当なら石矢魔にいるはずないくらい優秀だ。
引き受けてくれないか、と頼んだ先生の前で、姫ちゃんはリーゼントを崩し、サングラスを外してこう言った。

『申し訳ありません先生、僕、今卒業後の起業に向けて忙しくって……ああ、でも他の心当たりがありますよ。きっと彼なら僕より立派に、答辞を務めあげてくれると思います』

眼をハートマークにした『女の』先生は、そのまま神崎君のところへまっすぐ向かったという。他人事だから言うけど、グッジョブ姫ちゃん、最高だ。

「それに神崎君が断ったら誰やるの? 中心人物っていえば東条もだけど、さすがにアレはまずいでしょー」
「あいつに回さないくらいには、オレだって石矢魔に恩義はある……だが書けるかっつーとそれはまた別だ……あーもうめんどくせっ、夏目お前書け、春から大学生だろーがっ!」

前の席の椅子に反対向きで座ったオレの方へ、噛み跡がついたシャーペンが飛んできた。
進路が分かれること、そうなったら恋人を続けていけないこと。
冬の初め、修学旅行の頃にその事実を呑み下したオレたちは、本当に離れなくちゃいけないとき、そうできなくなる日まで、全力でお互いを愛し抜こうって誓い合った。
いろいろ騒々しい戦いの合間も、思いつく限りの楽しいことをし、たくさんのことを話し、卒業後のこともこうやって冗談みたいに言い合えるくらいになった。

「うーん、そんな神崎君にヒントになるかはわかんないんだけどさ、こんなのが回ってきたんだよねー。『姫川財閥主催☆神崎が答辞で言いそうなこと予想ゲーム~一番近い奴には賞金アリ~』」
「忙しいんじゃなかったの? ていうかあいつオレのこと大好きなの?」
「今のところのベストスリーはねー、じゃじゃーん、第三位! 『神崎一は、卒業せえへんで~!』」
「いや普通にするわ、させてくれよ」
「では第二位! 『石矢魔は永遠に不滅です』」
「……」
「……ちょっと言おうと思ってたんでしょ」

肘をつき視線をあさっての方へさ迷わせて、薄い耳たぶが赤い。
こんなかわいいオレの彼氏さんに第一位、発表したくないなー。

「……うるせーな、んで結局一位は何なんだよ」
「『花澤に告白』」
「……はぁ?」
「『花澤に告白』」
「繰り返さねーでいいから。しねーよ」
「……」
「しねーから」

機嫌直せ、って飲みかけのヨーグルッチのストローを唇につっこまれた。
これも噛んでるし、ぬるいし。

「つーかこれ、オレに途中経過バラしたら意味ないんじゃねーの……しっかしくだんねーな」
「なんかムカつくからオレは『夏目に告白』に一票入れよーっと」
「……誰かんなこと書いてんのか」
「輝かしき一票目ですけど、何か?」
「悪ノリで続けて票入りそうだからヤメロ……つーかお前は、もしされたらどうすんだよ」
「『花澤に告白』? 蹴っ飛ばす」
「そっちじゃねーよ! お前! お前がオレに告白されたら!」

さすがにこの神崎君の声は大きくて、教室に残ってた連中がひそひそ騒ぎ出した。
けどうちの生徒はバカだけど基本的にいい奴らだから、内容はホモとかキモいとかじゃなくて、あくまで予想外だ、とか、変えるか? とか姫ちゃんのゲームのオッズの心配だ。
こういうところが大好きで、卒業したくないなあ、なんて思っちゃう。

「……さぁ? そーいうのは当日までのお楽しみでしょーが」
「ほんっとお前いい性格してるよな……」
「大丈夫だよ神崎君、OKでもごめんなさいでも、カーペンターズ流れてV6が後ろから来てくれるから」
「クッソ懐かしいな……ガキの頃よく観てたわ」

年々ネットとかゲームとか、暇つぶしに楽しめることの種類が増えていって、みんなが絶対観てるテレビ番組、なんてほとんどなくなってしまった。
それでもオレたちが小学生くらいの頃にはそういうゴールデンのバラエティがいくつかあって、次の日の朝学校で、あれ観た? で通じたんだ。
屋上から言いたいことを叫ぶコーナーが名物のあの番組は、何年か前に終わっちゃったんだっけ? 大学はオレにとって『学校』ってイメージとは違うから、自分たちの学校生活があとほんの少しで終わってしまう今この時期には、番組名すら何だか感慨深い。

「……学校に行かなくなるなんて、何か信じらんねーな」

* * *

壇上で神崎君は、先生や来賓に深々と頭を下げた後、マイクの前に立った。
邦枝が話したままになっていた高さを調節し、懐から出した上包みを丁寧に外してから、答辞の用紙を広げる。
あそこに書いてある、へたくそな字の綴る内容を、結局オレは何も知らないまま今日この日を迎えた。

「……本日は私たち卒業生のために、このような盛大な式を催して頂き、誠にありがとうございます。何より、ご多忙の中ご臨席賜りましたご来賓、保護者の皆様方に心より御礼申し上げます」

金髪にたくさんのピアス、学ランの中だってYシャツじゃなくていつもの迷彩Tシャツなんて恰好と、背景の深紅のビロードの幕は、普通に考えたら相性最悪なんだろうけど、何でかすごく映えて見えた。
きっと『もよお』『たまわ』『らいひん』とかシャーペンでこっそりふりがな振ってるんじゃないかな、なんてことが頭の隅をよぎってもそれでも、見惚れてしまった。

* * *

三月に入ってからのデートは、もっぱらオレの新生活、ひとり暮らしで使う家具・家電・雑貨選びだった。お店もたくさん回ったし、どっちかの部屋で通販のカタログをめくることもあった。
金銭感覚が少々浮世離れしてるのには困ったけど、ベッドや掃除機からマグカップやお箸まで、神崎君は自分のことみたいに熱心に、一緒に考えてくれた。
スーパーは近くにあるのか、それが重要だって聞いたぞ、って組の人たちから情報を仕入れてお母さんみたいなことまで言うから、片道二時間だし、決めた物件の近くまで行ってみる? って聞いてみたこともあった。
でもそれはダメだ、って断られた。行き方や場所を覚えたら、いつか会いに行っちまいそうだから、って。

その日はおしゃれな雑貨屋が何軒か入った駅ビルを物色して、こまごましたものをいくつか買い、最後にちょっと疲れたなってハンバーガー屋に寄った。
神崎君はテリヤキバーガーとコーラ、オレはポテトとジンジャーエールってのはいつもの定番。
さっきの置時計どうすんだよ。アナログっておしゃれだけど音気になるかもしんないんだよねー。そういえば神崎君、答辞進んだの。今丸写しできるやつないかググってる。うわーサイテー。
そんなことをだらだら話してたら、ふいにちょうど今会計を終えて、席を探してる人が眼に留まった。
店内は満席に近くて、けどオレと神崎君の隣は空いてる。別にこっちは構わないんだけど、見た目怖いからみんな座ってくれないんだよねー。こういう時ってちょっと気まずい。
けど店内を見回してる、たぶんオレたちとタメぐらいの黒髪の男も、ずいぶん背が高くて鍛えた体してる……って、顔がちゃんと見えたら思い出した。メガネで関西弁の、えーと……名前は忘れちゃったけど。

「ねー神崎君、あそこで席探してるの、聖石矢魔の生徒会長じゃない?」「お、マジだ。あんだっけ、いずみ? あずま?」

とりあえずそんなに目立たないくらいの声でおーい、って呼んでちょっと手を振ってみる。
思った以上に口角を上げて、ぱあっと笑ってくれた。

「わー、奇遇やなあ。神崎君と、夏目君やったっけ? 隣座ってもええ?」
「おー座れ座れ。なんか去年まで校舎借りてたのに、もーっと久しぶりに見る気すんな」
「そお? 僕らんとこは君らがおらんくなってからえらい平和やったから、卒業式まであっちゅー間やった気ぃするで」
「あ、そっかー会長はもう卒業したんだ」
「もうとっくの昔に会長ちゃうんですけど……まあええか、えっ、だって卒業式普通もう終わったやろ。もしかして二人とも留年してもうたん?」
「ちげーよっ、うち年明けに石矢魔戻ってからもごたごたあって、卒業式遅れてんだよ」

それぞれの飲み物が半分くらいになるまでの間、オレと神崎君が殺六縁起との戦いや男鹿ちゃんの活躍を説明すると、会長は何度もドン引いて、そしてその倍くらい涙を浮かべるほど笑った。

「はー……おかし、えらい話聞かせてもろたわ。でもええね、桜今咲いたばっかりやから、卒業式にはちょうど散るか散らんかやろ? 漫画みたいでロマンチックやんか」
「あっ、そうだ神崎君、会長、もしかして答辞やったんじゃない? コツ教えてもらおうよ」
「ん、答辞? 卒業式の? まあやったけど……何、まさか君らのどっちかが答辞やるん?」

せめてこっち? とオレの方を見てくるも、オレが神崎君、神崎君が自分自身を指さすと、会長は両手で頭を抱えながら首を後ろへ倒し、そのまま少し横に傾げて、か、神崎君は神崎君らしくやればええんちゃうかな、と投げやりなアドバイスを放った。

「そうは言っても何言っていいか全っ然思いつかねーんだっつの。お前はどんな話したんだよ」
「んー、うちは代々生徒会長が答辞やるって決まっとるからね。その立場からの言葉っちゅーか、毎年だいたいこういうこと言う、って基本的なテンプレがあるんよ。それにちょいちょい、自分なりのエピソードを加えてく程度で……神崎君は、昔の答辞の文章とか見せてもらわんかったの」
「それが毎年毎年、やる人がその人らしく個性を爆発させてった結果、テンプレなんてないし、いっつもしっちゃかめっちゃかなんだってー」

会長はストローで口を塞いで返事を放棄し、ズズーっと残りのコーヒーを飲み干した。
神崎君は空いたトレイをオレの方へ押しやり、テーブルにバタッと体をうつ伏せてぼやく。

「……引き受けちまったからにはぶち壊しとかじゃなくて、せめて場がまとまるくらいにはちゃんとやんなきゃなんねーって思ってんだけどよー……姫川みてえに頭いいわけじゃねーし、まああいつも答辞向きじゃねえだろうけど、東条みてえに圧倒的に強かったわけでもねーし……このオレが、他の奴らより一段高いとこに立ってしゃべれることなんて、思いつかねえんだよな……」

会長は少しだけオレに体を寄せて、ええ子やね、と神崎君に聞こえないような小声で言ってきた。そーでしょ、ってオレも同じように返す。

「それこそ何でもええ、卒業にあたって神崎君が思う、飾らん素直な気持ちをみんなに言うたらええんちゃうかな。恥ずかしいから黙ってよ思っとったけど、僕は答辞、君らのこと話したで」
「オレたちのこと―?」
「そ。今年度は石矢魔の生徒を迎えた期間がありましたが、彼らから友情や協力のかたち、たくさんのことを学ぶことができました」

会長の癖のある標準語はふしぎな味があって、その頃のいろんなことがよみがえった。
城ちゃんの敵討ちで殴り込みに行った神崎君、そのさらに敵討ちをするために、ついに前に出て戦うことを選んだ自分。学年も性格もバラバラの退学組で、それでも一生懸命バレーの練習をしたこと。

「聖石矢魔は文武両方に力を入れた素晴らしい高校ですが、考えが似通った生徒が集まっていることは否めません。皆さんは新しい環境、これからの人生の中で、いろいろな考えを持つ人と出会うことでしょう」

全校生徒や昔の友達をかばうために、抵抗せず攻撃に耐えていた男鹿ちゃんの姿も。
たまたま間借りしてきた不良たちが、自分たちの学校の行事をめちゃくちゃにしたっていうのに、会長がこんな風に考えてくれてたなんて正直意外だった。

「けれどそれを恐れず、偏見の目で見ず、分かりあう努力をしましょう。それが自分自身を高めることにも繋がるでしょう……ってな」

語り終えたところでオレたちは思わず拍手をしてしまった。
さすがに照れて居たたまれなくなったのか、ほなごゆっくり~と席を立って行ってしまう。

「いい奴だったな……いずみ? あずま?」
「……ちゃんと名前聞いとけばよかったねー」

神崎君はポケットからスマホを取り出すと、卒業にあたってオレが思う、飾らない素直な気持ち、と小声で口に出しながら打ち込んでいた。

* * *

来賓と保護者への謝辞、そこまでを言い終えると神崎君は手元から視線を上げた。

「このような光栄な役割を担わせて頂けるとは思いもしなかったので、私はまず『答辞』というものについて調べました。するとそこには、送辞への答えだと書いてありました。送辞をしてくれた邦枝さんとは事前に打ち合わせもしていませんし、自分の番を緊張して待っていたので、先ほどの話もぶっちゃけあんまり聞いていません」

丁寧な言葉がだんだんに崩れ始め、いつもの神崎君節が顔を覗かせてきた。
張りつめていた式場全体が、何となくほっとした空気になる。

「なのでこの紙には送辞への答えは書いてありません。だから邦枝さんには、今思うことを直接言います」

神崎君はマイクから離れ、深く息を吸うと、邦枝ァ!! と大声で叫んだ。

「石矢魔を頼んだぞ! あとアレだ、あきらめねーで頑張れ!!」

全員から視線を向けられた邦枝は立ち上がり、神崎君に負けないくらい声を張り上げて叫び返した。

「石矢魔のことは任せなさい! 後半は何のことかわかんないけど、あんたに言われなくたってあきらめないで頑張るわよ!!」

一年生も二年生も三年生も笑ってた。
オレも姫ちゃんも他の石矢魔の奴らもみんな、神崎君のこういう答辞を聞きたかった。
こういう答辞をしてくれる神崎君のことが、みんな大好きだった。

「だから送辞への答えの答辞は、これで終わりにしまーす……他に何しゃべればいいかわかんねーから、校舎間借りしてた頃に世話になった聖石矢魔の会長に聞いてみた。そしたら『卒業にあたってオレが思う、飾らない素直な気持ち』っつーもんを言えばいいんだって教わったから、ここからはそれを話すのに、ちっと時間をもらおうと思う」

ツカミは大成功だよ神崎君、って心の中で思ってた。
それから続く話も、きっと神崎君らしいあったかくてほほ笑ましい内容なんだろう、って全校生徒みんなにこにこしながら期待してた。
でもオレたちの心の大将は、想像をはるか超えてもっとずっと大将だったんだ。

* * *

お別れの日は卒業式の日って決めた。高校生でいられる最後の日・3月31日や、4月1日にはもうオレは上京してしまってるから。
卒業式は三月最後の土曜日で、さすがにその週は登校しなくていいことになってたから自由がきいた。オレたちは卒業式前にいっぺん、お互いの家に泊まるって家族へ嘘をついて、ラブホテルで一夜を明かそうって計画を立てた。
それを金曜の夜にするって選択肢は、確かにあった。朝まで抱き合ってその足で卒業式に出て、さよならするってやり方もないわけじゃなかった。
木曜の夜にしよう、って言ったのはオレだった。ひとり暮らしする部屋の場所を覚えない、って決めてくれたのは神崎君だったから、今度はオレの番だと思った。木曜にしよう。別れたくなくて卒業式なんて放り出して、ふたりでどこかへ逃げたりしちゃわないように。

ソファに並んでおいしくないルームサービスを食べ、コーヒーを淹れてテレビをつけると、音楽番組では別れの歌特集をやっていた。
――大事なことは未来にあるよ。
そんな本当は聞き捨てならないことも、あんまり上手じゃないガールズバンドが抑揚なく歌うもんだから、オレ以外の世の中では当たり前で常識なのかな、なんて錯覚しかけてしまう。
神崎君はリモコンを奪って電源を切ると、風呂ためてくる、と立ち上がった。
オレのそばを通りがてら、髪をさら、と弄ぶいつもの癖も、今日で最後。
後ろから抱きこまれながら一緒にお風呂に入るのも最後。
結局慣れることのできなかった前処理もきっと人生で最後だ。今後神崎君以外の男の人を好きになることはないような気がするから。そう考えれば、神崎君が暴いたオレの体の奥の弱いところも、二人だけの内緒の思い出なのかもね、なんて複雑だけど思う。

抱き合ってはぽつぽつと話をし、また抱き合うのくり返し。
後ろからオレを責めていた神崎君が達し、預けてきた重みにうっとりして思わずオレは呟いた。

「……止まればいいのにね、このまま、時間が」

少しだけ息をのむ気配。神崎君は体を離してゴムを片すと、力の抜けたオレを横向きに寝せて自分も仰向けになり、腕枕をしてくれた。汗みずくの体が吸い付き合うみたいだ。

「オレはそうは思わねー……つーか、今は正直思うけど。でもそういうシステムはあっちゃダメだろって思う」

なんで、の代わりに胸板にほおを擦り付ける。安っぽいボディシャンプーと、汗の混ざったにおいも最後。

「だってオレ、知ってっだろうけどバカだからよ、ガキの頃のクリスマスとか誕生日とか、止めていいならちょっと楽しいだけですぐ止めちまったと思うんだよな、時間……そしたらお前に会えなかったし……今もなかった」

そう言って、ぎゅっと頭ごと抱きしめてくれる。

「……だから、止まるとかなくていんだよ、時間……きっと……いつか、今日だってっ……止めなくてよかった、って思う日が……来る……っ」

そうだね、きっと来るね。大事なことは未来にあるって、テレビでも言ってた。でも今はつよがりだから、震える声を絞り出す、しゃくり上げる胸の裏側、背中にぎゅっと力を込めて抱きしめ返した。
しばらくして神崎君は鼻をすすり、ぐいっと眼の端に浮かんだ涙をぬぐうと、オレの首筋にかじりつき、さっきまで神崎君を受け入れてたところに指をねじこむ、ちょっと強引なしぐさで行為を再開した。

「バーカ、納得してんじゃねえよ……あんなの嘘だ……大嘘だ……」

そんなことのくり返しだった。離れたくない、さみしい、明日なんか来なけりゃいい。そんな正直なわがままと、それを打ち消すきれいごとを、交互に言い合った。
自分でもびっくりしたのは、わがままと同様にきれいごとも正直な本心だったってことだ。
こんなに離れたくないって思える人と出会えて幸せだ。これが最後でさみしいって感じることがこんなにいっぱいある恋愛は楽しかった。オレたちが出会った日だってどっかの日の明日だった。全部本気で、心の底から思った。
こんなたくさんのきれいごとを、綺麗なことを、オレにくれてありがとうね、神崎君。

桜が見当たらないのに、ホテルの自動ドアの前にはどこかから舞ってきた花びらが溜まっていた。
また明日、卒業式でねって言って別れた。

*  *  *

「……卒業卒業っつーけど、じゃあ今日と明日で何が変わんだって考えてみた。勉強なんざろくにした覚えねーし、制服だって全然校則通りに着なかったし。そうすっと、やっぱりこの学校――校舎に来なくなるのが、オレたちの卒業なんじゃねえかって思った」

先生方、ご来賓のみなさま、こんなとこでこんなこと言ってごめんね。
でも事実だった。出席日数さえ足りてれば卒業できる、って理由だけじゃなくて、オレたちはこの校舎に、とにかく来たくて来てたんだ。

「石矢魔は汚ねーし、しょっちゅう壊れるし、けど居心地よかったよな……オレはここに来て、ほんとによかったと思う。だってオレたちここじゃなかったら、オレもお前らも全員、ただの不良Aとかでしかなかっただろ?」

神崎君は会場を見回しながら、一人ひとりに違う色の花束を渡すみたいに言う。

「責任感あって、融通きかなすぎるぐらい真面目な奴、へこんでもすぐ立ち直れる奴、気配りうまい奴、約束ちゃんと守る奴、冗談が面白い奴、機械強い奴、本たくさん読んでる奴……普段はへらへらしてるくせに、いざってときだけ漢気見せる奴……外から見りゃみんな変わんねえ不良Aでも、ここ、石矢魔ん中ならいろんな奴がいるんだなって知ることができた」

いかにも城ちゃんって例から始めてオレで締めるの、反則じゃないかな。

「ここに来なかったら、そういうそれぞれの性格や個性みたいなもん、ひょっとすると自分でだって気づかなかったかもしれねえ……優等生だった奴なんていねえ、オレたちは確かに不良で、でもこの校舎の中では、ちゃんとみんないいとこや得意なことを持った、誰一人いらない奴なんていない、石矢魔の仲間の一員だったと思う」

ふいに、会長と三人でハンバーガー屋にいたとき、神崎君がぼやいてたことを思い出す。

『このオレが、他の奴らより一段高いとこに立ってしゃべれることなんて、思いつかねえんだよな……』

姫ちゃんみたいに頭よくなくても、東条みたいに圧倒的に強くなくても、あったじゃん、話せること。
幅を利かせてた連中の中で、神崎君の力が一番、石矢魔の中でしか通用しないものだったと思う。外へ出ていきたい理由が一番少ない人だったと思う。
だから誰よりも説得力を持って語ることができた、こうやってこの校舎に、似た者同士で集まれたことのありがたみ。似た者同士で集まったからこそ、一人ひとりの特別な違いに気づけたかけがえのなさ。

「――で、これからオレたち三年はこの石矢魔を卒業して、進学やら就職やら、それぞれの新しい道へ進むわけだが、」

もう眼に涙を浮かべてる奴もいた。いかつい顔や姿の不良たちはみんな、手品か魔法を待つみたいに、きらきらした表情で神崎君を見つめてた。
特別強いわけでもないのに、意地と根性で震える足を踏みしめていた神崎君は、いわば石矢魔の、不良のシンボルだった。
そんな人の言葉は、これからどんなに辛いことがあっても、おまじないみたいに楽しかった青春をよみがえらせれる。
ここにいた頃のことを絶対忘れるな、とか、離れてもオレたちは仲間だ、とか、そんな陳腐な内容でも、みんな構わなかったはずなのに。

「――ここは、石矢魔はもうお前らの居場所じゃありません。いつでも本当の居場所はここにあるー、だの、ここにいた頃の自分が本当の自分だー、だの、絶ッ対にすがるな。どんなにここでの三年間が楽しかったとしても、思い出にしがみつくんじゃねえ」