星降る夜に

※バブ169~の古市鼻ティッシュ騒動終了後の夜のお話です。男鹿・古市の出会いなど現時点(2013/01/07)で単行本未収録ぶんを前提とした描写も含みますので、ネタバレを避けたい単行本派の方はご注意ください。

ようやく深く息ができたような気がした。
焦って苦しまぎれに吸ったところで胸は少ししか膨らまなくて、もちろん吐き出せる息もわずかだ。
立ち止まって落ち着いて深呼吸すればいいんだって、頭では分かってた。
勢いで変なこと口に出すからキモイとかウザいとか言われちゃうんだってことも。
でもとにかくでかい声で目立つこと言わないとみんなに聞こえない。言わなきゃよかったって後から思っても、思い浮かんだはしからわめかないといない扱いになる。
全部が全部誰かのせいってわけじゃない、加速させたのは自業自得。
前のめりで足がもつれたまま走って今日、ついに思いっきり転んだ。
派手にひざ擦りむいて、けど。
ちゃんと手が差し伸べられた。

「ずいぶんふっきれた顔してるじゃない」

家へ帰って顔や手についた泥を流してたら、後ろからラミアに声をかけられた。洗面所のドアにもたれかかって腕組み、鏡越しに見る顔はなんでか不機嫌そうだ。

「あー、まあみんなちょっと分かってくれたみたいだし?」
「……そうでもないと思うけど」

確かに神崎や姫川、東条あたりは怪しいけどな。
でも、いきなり百八十度評価変わって持ち上げられるような行いしてたわけじゃない。オレとしてはこれぐらいで十分だ。

「ほら、レッドテイルの人達は謝ってくれたじゃん。花澤さんとか」
「あれは男鹿が珍しくまじめにそういう話したから、シーンってなっただけじゃない。あの化粧濃い女は分かってたみたいなこと言ってたけど、どうだか……結局あたしたち、何にも分かんないままなんだけどっ」

とりなすように言えば、ラミアはフンと顔をそむけた。
もっと強く訴えろって言いたいんだろうか。どんな風に辛かったとか、オレのことちゃんと認めろとか?
気持ちはありがたいけど、済んでしまえばそこまで大ごとにして微妙な空気を作りたくない。
石矢魔の奴らはバカばっかだけど嫌な人達ではないから、きっと明日からは雑な扱いの根っこ、そこだけは改めてくれる気がする。

「ん。いんだよ。ありがとな、考えてくれて」
「ち、違うわよ! あんたはみんな分かってくれた、って思ってんのかもしんないけど、言っとくけどあんた男鹿にしか言ってないんだからね!」
「……へ?」
「だーかーら、あんたが何に悩んでたのかって話も、あんたがほんとは強いって話も、実際男鹿とあんたが二人だけでしただけでしょうが」

五年前、星降る夜に。
美咲さんは笑った、辰巳はたかちん一人いれば十分なのねって。
恥ずかしい奴め、ってそん時オレ思ったけど。

「結局あんたはあいつに分かってもらえばよかったってわけ?」

洗面台に手をついて、顔を下げた。
鏡越しにもはっきり分かるくらい、オレ真っ赤なはずだ。
恥ずかしい奴なのは、オレもだった。

*  *  *

男鹿と初めて話したのは小学五年生のとき。
放課後みんなが何して遊ぶって騒ぐのをよそに、ふいっと拒むように教室を出ていく背中が気になって、声をかけつきまとい始めた。
あいつは最初とまどってたみたいだけど、正面からぶつかり合った一件から、オレ達は並んで歩くようになった。

「古市お前、昨日怖い話のテレビ観たか」
「ん? 観てないそんなのやってたんだ」
「オレもまだ観てないんだけどよ、アネキとお袋がドラマ観るとか言って。録画してもらった」
「えっそれオレも観たい。今ランドセル置いてくるからさ、一緒に観ようぜ」

男鹿はおー、と頷きかけて、ふいに首を傾げ考えこんだ。

「待てよ、アネキに聞いてからにする。今日こそスケダチ必要かもしんねえしな」

遊んでて大丈夫そうなら電話する、と分かれ道でいったん手を振った。
最初はレディースの溜まり場で、今は男鹿んちでたまに顔を合わせる男鹿の姉ちゃん、美咲さん。
涼しげな眼もとの清楚さに、笑顔ににじむ気の強さと面倒見のよさ。それはもうどストライクではあったんだけど、その頃は少しだけ苦手だった。
いくら男鹿でも小学生を、大の男相手のケンカに連れ出すってどうなんだ。
そう言うとあいつは何が問題なんだって顔をする。オレは強いんだからって。
それにうまく答えられない自分も嫌だった。
そんなのおかしいから、じゃ男鹿を弾くクラスの奴らと一緒だ。

後で考えると男鹿や美咲さんを変だって言いたいんじゃなくて、ただ友達として心配だっただけだ。
でもその頃はそんな言葉使えなかった。

家で待っていると、程なくして電話が鳴った。
今日もスケダチ大丈夫だから遊んでいいってよ。
抑揚の少ない声からはうれしいのか残念なのか読み取れない。
あいつは本当はどっちがしたいんだろう、そう思いながら男鹿の家へ向かった。

「おっ、たかちんじゃんいらっしゃい」

チャイムを鳴らすと、ドアを開けてくれたのは男鹿じゃなくて出がけの美咲さんだった。

「おじゃまします! 美咲さんは出かけるんですか」
「んー、ちょっとね。おかーさん買い物行ってるから、お菓子はリビングに出てるの適当に食べて」

遅れて男鹿がおー古市来たか、と二階から下りてきた。
お母さんたちがいないせいかズダダダン! と遠慮ない駆け下りっぷりなので、落ちんなよ、と思わず声をかける。
それを見ていた美咲さんは、ちょっと笑ってオレの頭を軽くなでた。

「んじゃあたしは出かけてくるから、ケンカしないで留守番してんのよ」

いってらっしゃい、と手を振るオレの横で、ケンカって言葉にぴくり、男鹿が反応した。

「おいアネキ、ほんとにオレ行かなくて大丈夫なんだろうな」

くっとアゴを上げ、唇を引き結んだ横顔を盗み見て、ああ、ってようやく腑に落ちた。
美咲さんと行くのをめんどくさいと思っているようでも、行けなくてつまらないと思っているようでもなかった。
ケンカの助太刀は男鹿にとって面倒事でも遊びでもなくて、頼まれごとだった。
その眼は自分よりずっと大きくて強い美咲さんに、それでも心配を向ける男の眼だった。
美咲さんは眉を下げて笑った。切なそうにも、敵わないなあっていう風にも見える、苦笑い寄りのほほ笑み方だった。

「大丈夫よ。実は最近ちょっとあの子達ビシバシしごいてやろうと思っててね。あんたがいるとどうしても頼っちゃうだろうから、手借りずに頑張らせてみるわ」

ふんふんそうかと真剣にうなずく男鹿に満足げに笑うと、美咲さんは今度こそ出かけていった。
小五で友達になってから、男鹿とオレは本当に毎日のように遊んだ。
オレを置いて男鹿が美咲さんのケンカへ行くことはなかった。
オレと遊ぶようになってから、美咲さんは一度も男鹿をケンカに呼ばなかったからだ。

戦力になっていたのは確かだろうが、美咲さん達のケンカはきっと、男鹿がいなくてもはじめから大丈夫だったんだろう。
すごく大人びて見えていたけど、あの頃美咲さんはまだ十四、中学二年生だった。
涼しげな眼もとの清楚さに、笑顔ににじむ気の強さと面倒見のよさ。
抱いていた苦手意識もすっと消えてなくなり、正真正銘どストライクになった。
けどこの思い出をなぞるたびに、美咲さんはきれいな女の人、という以前に男鹿の、そしてオレにとっても『お姉さん』だって思えてならない。

学校がある日の放課後にとどまらず、夏休みも虫取り網やプール道具を手にお互いの家のチャイムを鳴らし合った。
オレは他に友達がいないわけじゃなかったけど、ひとりとこんなに仲良くするのは初めてだった。
得意なことや好きなものに正反対なところはあったけど、男鹿とはなぜか波長が合って、遊ぶたびにどんどんツーカーになっていくのは楽しかった。

「……オイ古市、これ」

それは秋の連休を控えた帰り道。
商店街のゲーム屋の前で立ち止まった男鹿は、自動ドアのところのポスターを指さした。
ふたりして楽しみにしていたRPGの新作、発売日にイベントがあって、参加者には特典でレアモンスターのデータがもらえるらしい。
男鹿はもちろん行くだろ、という顔をしている。
けど連休の初日のその日、オレには外せない予定があった。

「あー……悪いけどこの日はオレ無理だわ」
「あぁ? 何かあんのかよ」
「家族でキャンプ行くんだ。西魔二津高原」

それまでは何だがっかりだなくらいの感じだったのに、行き先を告げると男鹿は露骨に顔をしかめた。

「去年の林間学校で行ったとこだよ。あん時は青年の家だったけど、今回はテント張って泊まんの」
「……知らねーよ」
「覚えてねーの? ほら班でハイキングとかしたじゃん」
「……」
「あそこ釣りもできるんだよな、父さんとしようって言ってんだ。ほら、オレ達はしなかったけど、教頭先生が魚取ってきてくれたじゃん」

オレが言葉を続ければ続けるほど、男鹿のまとう空気は重くなってついに、視線を落として吐き捨てるように言った。

「……オレ行ってねーし」
「え?」
「オレがいんの嫌だっつわれたから、同じ班の奴らに」
「……っ」

とっさに出そうになったごめん、は何とか飲み込んだ。
でも代わりの言葉は見つからなくて黙れば、まあオレも興味ねーしどうせつまんねーし、とごまかすような早口が続く。
春の遠足、ほのかは風邪を引いて行けなかった。すごく悔しがっててオレもかわいそうだって思ったけどそれとも違う。
オレはなんて言えばいいんだろう。
残念だったなそいつらマジ最悪だな? 確かにハイキングの途中で雨降ったしつまんなかったぞ?
そうじゃない。伝えたいのはそんなことじゃない。
オレが言いたいのは、きっと。

「……キャンプ、男鹿も行こう」
「はあ!?」
「父さんに頼んでみる。でっかいテントだから一人くらい増えてもたぶん大丈夫だし」
「……オレは別に」
「一緒に行けば絶対面白えし。てゆーか、オレが男鹿いた方が楽しい」

な? と畳みかければ、気圧されたように男鹿は頷いた。
その足で男鹿のお母さんに許しを得に行けばすごく喜んでくれて、結局男鹿とオレの家族八人みんなで行くことになった。
親父さんは張り切ってテントやらアウトドア用品を買い揃えた。
美咲さんはごっめんねーとちっともすまなそうじゃない声で友達に電話して、遊園地に行く約束をキャンセルしてくれた。

「ったく、浮かれやがって」
「でも行けることになってよかったな」

いつも通り男鹿の部屋で遊んで、帰りがけにリビングの横を通りかかると、お母さんに声をかけられた。

「辰巳今テレビで天気予報やってるわよ」
「……だからなんだよ」
「あらあんた先週からずーっと気にしてたから教えてあげたのに。週末晴れるって、よかったわねー」

さっきまでどうでもよさそうにしてたぶんおかしくて、思わずよかったじゃん、と肩で肩をどついた。
うるせーなって怒られるかと思ったのに。

「……おー、晴れんなら釣りできるな」

むすっとしたいつもの顔には、どうしようもなく喜んでんのが隠しきれずにじんでいた。
だからオレもうれしくなって、楽しみだな! って男鹿のぶんまで笑った。

過去は変わんないし、なぐさめの言葉もピッチャーがオレ、キャッチャー男鹿の下手くそなバッテリーじゃ暴投でエラーだ。
楽しかったんだ楽しいんだって分かち合いたいなら、やり直してみればいい。
そんで魔二津の名前を聞いたらあん時楽しかったな、って思い出して笑い合えればいい。
分かち合える楽しい記憶をひとつでも増やしたかった。
それができるならオレは何度でも道を引き返そうと思えた。
今度こそって行きの道も、思い出抱えて帰りの道も、どっちも絶対楽しいって。