流れゆく世界のなかで

※途中性描写を含むため十八歳未満の方は閲覧をお控えください。
※高三、修学旅行前後の神夏です。『会心の一撃』『ロージー』と続いていますが単品でも読めると思います。

付き合いだしてから一ヶ月ほど経った雨の日に、はじめてのセックスをした。
オレは女ともしたことがなかった。もちろん夏目も受け入れる側の経験はあるはずなかった。
試行錯誤の末ようやく一番深くまで繋がれば、あいつの中はきつくて苦しくて、でもそれ以上にものすごく気持ちよくてたまらなかった。なんでこんな幸せなことを知らないで、今まで当たり前に生きてこれたんだって本気で思った。
深く息を吸って吐いて、もっともっとってはやる気持ちを抑えつける。枕を握る夏目の指先は、力を込めすぎて白くなっていた。苦しさと気持ちよさ、こいつが感じてるのはきっとオレと真逆の割合だ。

『……組の奴らが言ってたんだけどよ、女は三途の川渡るとき、はじめての相手に手引いてもらうんだと』

なんか声かけねえと、って言葉を探して浮かんだのは、何日か前に聞いた与太話だった。
耐えるように閉じていたまぶたを薄く開き、夏目はオレを見上げる。
そのいわゆる流し目、必死に言うこときかせてる理性がガンガン揺さぶられるのでやめて頂きたい。

『……男は?』
『男はなし。ひとりだっつってた』
『ふっ……何それ』

うつむいて苦笑い。その表情はばかばかしいって呆れてるようにも、傷ついてるようにも見えた。
突き立てられた圧迫感に顔をしかめながら体を起こし、左の手のひらをオレの頬へと添わせる。

『……オレ、男だよ?』
『知ってる』

知ってる。知っててその当たり前を外れ、知ってるのにこんなことを頼んでる。
知ってるからこそごめんなって思うし、そして身勝手にうれしい。

『知ってっけど……行くから』

はじめてをもらった相手と今も、って奴は組の中には少なかったが、めいめい思い当たる顔を頭に浮かべてまんざらでもなさそうだった。
オレはいいけど向こうが嫌がりそう、と自嘲した奴もいた。自分とのことはきっといい思い出じゃないって。
ずっと先のその日、オレはお前にとってどんな存在なんだろうな。
いい思い出か悪い思い出か、そもそもいつか思い出になっちまうのか。
こんな約束しなきゃよかったって、お互い後悔してるかもしれない。
でも、こんなにも今お前のことを好きなオレは、この気持ちが間違いとはどうしたって思えないんだ。
いつか間違いだって思ったとしたら、それこそが間違いだってガキかもしんねえけど思うんだ。
誓うよ。絶対行くからその時は、差し出した手を取ってくれ。

*  *  *

週が明ければすぐ沖縄だ。
昼休みの教室では、それぞれガイドブックを広げ自由行動の計画で盛り上がってる。
オレはというと写真の青い空より海より、その上をすべる指先を見ていた。

「ここがホテルの前のビーチだって。シーズンオフだから泳ぐのは無理だけど、波打ち際散歩くらいはできたらいいねー」

やすりで仕上げたのか角のない爪。ごついけど荒れやかさつきは見当たらないなめらかな手の甲。
夏目はいつだって、なんだってちゃんとしていた。
やりすぎない程度に整えた眉、そこらの女よりずっと艶のある長い髪。
ポケットにはいつもアイロンのかかったハンカチが入ってて、雨の外から帰るとすぐに濡れた鞄を拭く。
なんでも困るギリギリになってやっと手をつけるオレには、そんなことのひとつひとつがまぶしく見えた。
たいしたことじゃないよ、とか笑うけど、からまりきったオレのイヤホンのコードをやすやす解く手つきは魔法みたいだった。

「夏目、弟たちに紅いもタルトというのを買って帰りたいんだが」
「オレもそれ写真見た、おいしそうだよねー。空港とかホテルでも売ってるだろうけど本店は確か……っていうか城ちゃん、お土産もいいけど自分も遊ばなきゃだよー?」

ちゃんとしてるところが好きだった。その思いに嘘はなかった。
男同士で出会ったことに不満はないが、女だったらもっと大っぴらに、気つかってるとこ褒めてやれんのになって一点だけはもしもを考える。
けどその真っ当さにふれるたび、最近は少し苦しくなった。

「神崎君、どうかした? 調子悪い?」
「っ、別に――」

ぼうっとして黙ったままのオレに気づいて、夏目が視界に手をひらめかせる。
慌てて顔を上げ答えようとした言葉の続きは、思いもよらない声に遮られた。

「夏目」

どうでもいいけど先輩つけろよ、って自分のときは気にしないくせになんでか耳についたのは、きっと普段この声がこいつの名前を呼ぶのを聞き慣れてないせいだ。
視線を向ければいつの間にか机のすぐ前まで来ていた。
珍しい取り合わせだと思ったのはオレだけじゃないらしい。じろじろ見るまではいかないものの、ざわついていた教室が少し静かになり、聞き耳を立ててるのを感じる。

「うん? どうしたの邦枝」
「あんたにちょっと聞きたいことあるんだけど、今大丈夫かしら」
「平気だけど」
「○○大の指定校推薦受けるんでしょ? 私も考えてて――」

ガイドブックの上、空と海のちょうど境界線に乗っかっていた人差し指がひくりと跳ねた。
本当にただ聞いただけ、含みはないんだろう邦枝と、無言で問いつめるオレと城山、三方向からの視線に貫かれた夏目は、かろうじて、という感じでへらりと笑みを作った。
もちろんくちびるの端が引きつっていて、やばいと思ってるのは手にとるようにわかる。

「く、邦枝ー、それおっきい声で言っちゃダメなやつー」
「えっ、もしかしてあんた内緒にしてたの!? だって試験もう来週でしょ!?」

来週。オレも城山も声には出さないものの、思わず口の中でくり返してしまった。
力なく頭を抱える夏目に、さすがの邦枝も相当な地雷を踏んだって察したらしい。それ以上話を続けようとはしなかった。
初耳だった。こいつから卒業後の進路について聞いたことは一度もなかった。

「へえ、○○大の指定校、結局お前んとこに回ったのか」
「……姫ちゃん」

沈黙を破ったのは、離れたとこで聞いてたらしい姫川だった。
空気がゆるんだことにほっとした様子の城山が、それでも何でお前がっていぶかしさをにじませながら尋ねる。

「姫川はこのことを知っていたのか」
「そういう枠があるってことはな。誰が使うかまでは知ったこっちゃなかったけど。ふーん、お前ね。まあ順当なとこだろうが、大学とか行く気あったんだな」
「うるさいなー……城ちゃん黙っててごめん、石矢魔には○○大への推薦枠がひとりぶんだけあってさ、成績順に先生からお前どうだって打診あるんだよ。姫ちゃんはほら……オレより頭いいから。先に聞かれたから知ってるんだと思う」
「断ったけどな。あんなレベル低いとこじゃ行く意味ねーよ」
「受けようとしてる人の前でそういうこと言わないのー」

そこからはずっと気にしていた周りも加わって、ちょっとした騒ぎになった。
姫川の次に陣野が蹴って夏目に回ってきたこと。
その大学が都内のどこにあって、近くに何があるかってこと。
邦枝は絶対受けるってまだ決めたわけじゃないけど、二年で他に候補はいないだろうってこと。
クラスの連中は応援と祝福のムードだった。
はじめこそお前は本当に水くさいなと呆れていた城山も、ふらふらしてる夏目がまともな進路を定めたことが、結局のところどこかうれしそうだった。
オレだけが、何で隠してたとも頑張れよとも言えず黙ったままだった。
みんなの質問にひとつひとつ丁寧に返しながらこいつが、他の誰のより一番、オレの反応を待ってるのを気づいてたくせして。
ずっと内緒にされてたことも、夏目がそういう道を選んだことも、周りみたいにすぐには飲みこめなかった。

「てゆーか姐さん、卒業したら地元出てっちゃうんスかー?」
「ううん、もし入ったらの話だけど、私は家から通うつもり。ちょっと遠いけど、このあたりからも電車通学する人結構いるのよね?」

心細そうな顔をしたパー子の質問から、邦枝が夏目に同意を求めた。
それまでスムーズに答えてたのに少しだけ詰まり、意味もなく手もとのガイドブックに折り目をつけながら口を開く。

「……そーだね、半々くらいかな、通う人もいるみたいだよ。片道二時間かかるから、近くにアパート借りる場合もあるらしいけど」

こいつがどうするかって話にはならなかった。
けど自分も通うとは言わない濁し方で、オレには予想がついた。
夏目はその大学に受かったら、家を出てひとり暮らしをするつもりだ。

「神崎さん?」
「……便所」

椅子を引いて立ち上がる。心配そうに声をかけてきた城山には適当に返した。
大して入っていない鞄は机にかけたままだが、財布と携帯はポケットの中だ。教室を出てそのまま昇降口へ向かう。
あの空気の中にこれ以上いたくなかった。
真っ昼間の街を人目も気にせず歩き、駅に着いて電車を待っているところでメールが届いた。
昼休みが終わり、授業が始まっているはずの時間だった。

From|夏目慎太郎
本文|内緒にしててごめん
   バイト終わったら夜電話します

あいつの頭について知ってるのはオレよりもずっといいってことくらいで、それが実際どれほどのもんかはわからない。
でも夏目はいつだって、なんだってちゃんとしていた。
そのことは誰にも負けないくらい知っていた。
そしてそれは成績なんかよりもずっと大切な、真っ当な世界へと繋がる切符だと思う。

『退学なんなくてよかったねー、高三のこの時期まできて放り出されても困るよ』
『……まあオレは最悪そうなってもどうにかなるけどな』
『あっずるい。そしたらオレも神崎君ちの組に入れてよね』
『バーカ何ぬかしてんだ、親泣くぞ』

付き合う前に交わした他愛もない話がふいによみがえって、思わず舌打ちをした。
ちゃんとしてるところが好きだった。その思いに嘘はなかった。
けどその真っ当さにふれるたび、苦しい。
今はたまたま歩む道が重なっただけで、ゆくゆくはそうじゃなくなるんだって思い知らされるから。