ベイビーワンスモア

(神崎視点)

「さぁ 反撃開始といきましょーか」
陣野の顔面に膝蹴りを決めた夏目は、そう言ってオレたちを振り返った。夜風に長い髪がなびく。力の入らない足をそれでも踏みしめ、奥歯をぐっと噛んだ。お前を好きになって、いつの間にかそうでもなくなって、とっくの昔に有効期限は切れたもんだと思ってたが。出会った時から何度も、その眼差しがオレを蘇らせる。

負けるたびに、オレの伝説はまだ始まってないだけと思い続けていた高一の春。
その日も二年のグループに目をつけられ囲まれた。城山とともに地面に伏しながら、いい加減そろそろ始まってくんねーかな、とぼんやり思っていた。このままだと始まる前に心が終わる。
敵のボスはつまんねーなと言い捨て、城山の鞄を漁り出した。取られても平気です、なるべく中身入れてないんで、と名案のように言っていた薄い財布が顔を出した瞬間、残る力を振り絞り体当たりした。もちろんあっけなく引き剥がされる。
「何しやがる! かっこつけてんじゃねーぞ!」
胸ぐらを掴まれ、再び殴られる――と思いきや、そいつはオレに覆い被さるようにして倒れた。
「ごめんねー、先輩」
後ろから蹴飛ばしたらしい茶髪(まだロン毛じゃなかった)の男を、オレも敵も皆驚いて見つめた。奴はついさっきまで確かに向こうのグループの一員だったはずだ。
「多勢に無勢で面白くねーんだもん」
立てる? とオレの手を取り引っ張り起こす。
「ねえ、もう少し頑張れるよね?」
正直言うと最後の体当たりで力は使い果たしていた。息は上がり足元はふらついて、でも男の目と声には挑発するような含みがあったから。絶対に頑張れないなんて返したくない、そう思った。
「……誰に向かって口きいてんだ」
「いい返事ー」
襲いかかってくる敵グループを背中合わせで迎え撃つ。男はとにかく強かった。オレとその相手が思わずケンカを止めて目を奪われるくらいに。ひとりを拳でまたひとりを蹴りで、あっという間に沈めた後、鉄パイプを持ってる奴から取り上げる。
「次は誰ー?」
鉄パイプでぽんぽん肩を叩く男に名乗りを上げる者はなく、敵グループは尻尾を巻いて逃げていった。
「てめーが勝手にやったことだ、礼は言わねー」
「いいよ別に。それより名前教えて」
「……神崎一」
「オレは夏目慎太郎。ねえ、神崎君のグループにオレも入れてくれない?」
「はぁ?」
「行くとこなくなっちゃったし、それに神崎君面白そうだからさ。自分で言うのも何だけど、役に立つと思うよーオレ」
こっちは必死だってのに面白がってんじゃねーってムカついたし、うさんくさいとも思った。けどその信用できなさと天秤にかけても、オレが石矢魔の頂点を目指すなら強い右腕がどうしても必要だった。
「ちっ、仕方ねえ。言っとくけどな、どんだけ強かろうが、てめーはオレの舎弟だからな。わかったら敬語使えっ」
「ふふっ、はいはい大将」
「はいは一回だ!」
「はーい」
それに何故か、こいつといるといい感じに調子に乗れた。笑みを向けられれば、ようやく始まった伝説の主人公になれた気がした。
その理由を最初は、オレも夏目も超がつくほどかっこつけで、それが互いに作用し合ってるんだと思っていたが。確かにそれもそうだったが、後にオレは知ることになる――恋の予感ってやつだったことを。

それまで周りにはカタブツの城山と、オレをヤクザの息子として恐れている奴らしかいなかったから、夏目が現れてやっと、くだらない世間話や冗談を言い合えるようになった。
つーかダチ自体がガキの頃ぶりなんだよな、友達だと思ってるなんて言った日には散々からかわれんだろうけど……って、想像したら腹立ってきた。
「おい夏目、ヨーグルッチ買ってこい」
「えー今メール打ってるんすけど。まあいいや、オレもコーラ飲みたいし、一緒に行こ」
「くそ……仕方ねえな」
いつもどこ行くのにも一緒で、身を寄せ合ってはたわいのないことでげらげら笑った。
夏目が味方についてから状況も変わっていた。そのへんの奴らとのケンカじゃ負けなしになったし、舎弟も増えた。一年の廊下ではオレたちが通る時皆道をあける。
楽しいも嬉しいもこいつと出会って始まったから、バカなオレにはだんだんわからなくなっていった。眩しいのは開けた世界なのか、陽に透ける柔らかい髪なのか。高鳴るのは駆け出した日々になのか、ふいに立ち上る甘い香水になのか。
わからなくなっていった。ありがとう、と好きだ、の境界線も。

夏目はまだバイトを始めてなくて、放課後や休みも城山と三人で、あるいは二人でつるんで過ごした。
その時もオレと夏目は一日中ゲーセンでダラダラした帰りだった。
「はじめ! はじめーっ!」
「げっ、二葉……」
日曜の夕方の街は騒がしかったが、甲高い声はよく響いた。顔を向けると兄貴に抱え上げられた姪が、ぶんぶんと手を振っていた。
「久しぶりだな一、二葉でっかくなっただろ」
「知らねーよ、変わんないんじゃね」
「持ってみろって、重くなったから」
「いらねっつの」
「いいから」
渋々二葉を抱き取ると、それまで黙って横についていた夏目がぷっと吹き出した。
「……何だよ」
「いや、神崎君と子どもって意外と似合うなーと思って。親戚の子っすか?」
「うるせーな。姪っ子だ」
そこで兄貴が夏目に、どうも一の兄です、と言って進み出た。
「何お前友達できたの?」
「あー、こいつは……」
「初めまして、神崎君の舎弟の夏目といいます」
オレが適当にごまかすより早く、夏目が愛想良く答える。
「舎弟!? 石矢魔だと今でもそういうのあるんだなー」
「そういうことだから、じゃあな!」
二葉を返して立ち去ろうとしたが、離れてくれず舌打ちをする。楽しそうに笑う兄貴は、昔からオレをからかって遊ぶのが好きだった。
「どう、こいつちゃんと親分やってる? アホで頼りないだろ?」
「ほっとけよ……」
出来のいい兄貴と比べたら、アホも頼りないも認めたくないが事実だ。どうせこいつもそうっすねーってけらけら同意するんだろうと思ってたから、夏目の言葉に驚いた。
「神崎君、めちゃくちゃかっこいいっすよ」
口元は引き上げていたが目は笑ってなかった。何似合わないマジになってんだよ、そう茶化したかったけど何故か喉が詰まって言えなかった。
「そうだ! はじめはかっこいいぞ!」
オレの腕の中で二葉がわめく。夏目は表情をゆるめてその頭を撫でた。

兄貴と二葉と別れた後、うちへ帰る道を外れて河原に来た。陽はとうに暮れ、風に草が揺れる音と虫の声だけが響いて静かだった。
オレは水切りをしながら、少し離れた階段に座っている夏目に打ち明け話をした。
ガキの頃からずっと、頭がよくケンカも強い兄貴に引け目を感じていたこと。家の誰もが期待を寄せていた兄貴が、突然組を継がないと言い出したこと。石矢魔のてっぺんを取って、兄貴の代わりじゃないオレ自身を皆に認めさせたいこと。
こうやって口に出してみると、オレの頭ん中って兄貴のことばっかだな。でも最近は夏目、お前のことも考えるようになってる。明日はもっと、あさってはきっともっと……それは言わねーけど。
「……って、真面目に聞け!」
「危なっ! 聞いてるってー」
振り返ると夏目は携帯をいじっていた。石を投げるが避けられる。
「ちっ、ナメやがって……どうせさっきも適当言ったんだろ」
「さっき?」
「その、オレがめちゃくちゃ……」
「ああ、かっこいいって言ったこと? 適当じゃないっすよ」
「……ふーん」
「神崎君は初めて会った時からかっこよかった」
「どこがだよ、負けてただろーが」
「ボロボロで倒れてたのに、城ちゃんの財布が取られそうになったら立ち上がって向かってた。あの時はおおって思った」
「当たり前のことだろ」
「あと神崎君はどれだけ舎弟が増えても、ちゃんと自分でケンカに出てく、オレたちに任せっきりにしたりしない。そういうとこかっこいいと思う」
「自分で勝たなきゃ意味ねーだろ、それも当たり前だ」
「そういう大将ばっかりじゃないんすよ。神崎君はそのままでいてね」
「ふん……なんつーか、お前のツボは地味すぎんだよ。そういうのはめちゃくちゃかっこいいとは言わねー」
そうかもね、と言って夏目は立ち上がり、オレの横に並んだ。
「確かにめちゃくちゃ、は言い過ぎだったかも。姪っ子ちゃんがいたからついムキになっちゃったんすよねー」
「二葉が?」
「あの子、はじめはじめーってくっついて、神崎君のこと大好きじゃないっすか。お兄さんとオレが神崎君のことバカにしたら、話の中身はわかんなくても雰囲気は伝わると思うし。好きな人のこと笑われたら嫌でしょ」
「……っ」
唾を飲み込む音がやけに大きく感じた。夏目が思いやったのは二葉だったが、それはオレの中のやわらかい部分に目線を合わせ、そっと撫でるような行いだった。
「だからちょっと盛っちゃった。まあ派手な活躍は今後に期待ってことで……って、神崎君?」
夏目の腕はさらりとして冷たく、自分の手のひらが熱いことを知った。半袖のパーカーから伸びる、筋張ったあまり焼けていない腕を掴んだ。
「何? 神崎君、泣きそう?」
「泣かねーよ」
「じゃあ怒ってる?」
「怒ってもいねー」
「どういう感情?」
「……わかんね」
「何それー」
ありがとうよりもっと、じりじりして、じたばたして、きらきらした感情――息を深く吸い、吐いた。
「……好きだ」
しばらくの沈黙の後、夏目は首を傾げ「今?」と言った。
「……おう、今」
「今なんか好きになるようなとこあった? 神崎君のツボこそ地味すぎじゃないっすかー」
「うるせーな! ……で、どーなんだよ」
「どうって……オレも好きかどうか? それとも付き合うかどうか?」
「……両方」
「じゃあ両方保留かな。すぐには返事できない、少し考えさせて」
「ちっ、引っ張りやがって」
「だって今までそんな目で見てこなかったんだもん。それに神崎君こそ、少し時間置いたら考え変わるかもよー?」
変わるわけねーだろ、とは確かに言い切れなかった。オレの中の感情の部分がこいつを好きだと答えを出したことに、理性の部分はまだ驚いている――でも、ひとつだけ揺るぎないことがあって。
「……明日以降、お前がどんな返事をしようが、オレが好きだっつったのはやっぱなしって考え直そうが……今日、お前のことすげーいい奴だと思ったのは絶対変わんねーから」
「うん、オレもかっこいいって言ったの、本当っすよ」
「……ふん」
「ははっ、照れるねー」
夏目は掴まれていない方の手で、暑い、と胸元をぱたぱたさせた。この頃はまだあらわだったうなじが汗で光るのにどきりとして、明日もきっと好きだと思う。

その次の日の月曜、オレは学校に行かなかった。二時間目が始まるあたりで、夏目から今日は休みかと尋ねるメールが送られてきた。返事をしないでいると、間を置いてもう一通届く。
『やっぱり考えが変わった?』
頭をがしがし掻き、携帯を操作する。気が進まないがあいつを呼び出すことにした。

夏目にねだられ、ベッドの上でそこを見せる。指の先でそっと触れられてオレは思わず呻いた。
「神崎君、すごい赤く腫れ上がってる……疼いてたまんないでしょ?」
「下ネタみたいに言うな! ただの虫刺されだっつの!」
けらけら笑うバカを蹴ろうとしたが避けられる。オレの脚は数えるのも嫌になるくらいの虫刺されでひどい有様だ。痒いし腫れてるし寝てる間に掻いちまって痛い、散々だ。
「昨日ハーフパンツだったもんねー、あんな草むらに長い間いたらそりゃ刺されるよー」
「何でお前は無事なんだよ、O型が一番刺されやすいって前テレビで観たぞ」
「オレ長ズボンだったし、刺されるのやだからなるべく草の方に行かなかったしー。体温高い人も狙われるらしいから、神崎君はそれじゃないっすか?」
舌打ちしてベッドに寝転がる。昨日の夜の河原での時間は、語らいから告白まですごくいい雰囲気だと思った。なのに朝になったらこのザマで、決まらないったらありゃしねえ。
「ほら、拗ねない拗ねない。神崎君、薬塗った?」
「朝塗った」
「じゃあ念のためもう一回塗って、掻かないように包帯巻いた方がいいんじゃない?」
ソファの前のテーブルに放ってあった薬のチューブを手に、夏目はベッドへ戻ってくる。大の男二人分の体重がかかり、ぎし、と音を立てた。これまでもケンカの後に包帯を巻いてもらったり、絆創膏や湿布を貼ってもらったりしてきたが。
「……自分で塗れる」
「そう? 包帯はやるね」
「そっちもいい」
「神崎君巻くの下手じゃん」
「そういうことじゃねーんだよ……自分のこと好きだっつってる奴に、返事もしてねーのにべたべた触んな」
背を向けると、「オレも好きだよ」と言うのでがばりと起き上がった。
「何だって?」
「二回言わせるー? オレも神崎君のこと、好きだよ」
「……ノリで言ってんじゃねーだろーな」
「失礼な。今朝彼女とも別れてきたし」
「おまっ……彼女いたのかよ!?」
「高校入ってからほとんど会ってなかったけど、ちゃんと別れてもなかったって感じ。好きな男ができたって言ったら笑ってたよー」
「……本当にいいのか」
窓からの陽を受けて、夏目の色素の薄い髪がきらきら輝いている。こんなきれいな奴がこれからはオレのものだなんて信じられなくて、疑う言葉ばかりが口をついた。本当に言いたいことは違うのに。
「これでも一晩本気で考えたんだよ。神崎君といると楽しいし、付き合ったら面白いだろうなって思った。先々のことは……まあちょっと不安ではあるけど」
先々のこと、と繰り返すと、夏目は「言わせる気?」と困ったように眉を下げた。少し遅れて理解して、顔がぼっと熱くなる。
「優しくしてね?」
「……絶対に、大切にする」
そう、これが言いたかったこと。本当は窓を開けて世界中に誓いたかったが、夏目の何かとてつもなくいい匂いのする体をぎゅうと抱きしめてこらえた。

恋人になってからは、友達の頃以上にべったり二人でいるようになった。オレは付き合うのが初めてで浮かれて、とにかく一緒にいたかったし、体のどこかをくっつけていたかった。夜遅くまで夏目を帰したがらず困らせたし、人のいないバスの中や校舎の隅で、手を繋いだりキスをしたがってたしなめられたりもした。

涼しくなり脚の虫さされもきれいに治った頃、オレたちは初めて体を重ねた。夏目がうちに泊まりに来てその夜だ。オレの部屋は他の部屋とだいぶ離れたところにあるが、念のため深夜寝静まるのを待ってことを始めた。
オレンジの間接照明に照らし出された裸は、息を呑むほどうつくしかった。いつもつけてるピアスもアクセも今夜は全部外した。何も隔てるものなく抱き合って頬ずりをすると、二度と離れたくないくらい気持ちがよかった。
夏目の深いキスはとんでもなくエロいウルトラテクニックだった。オレは完全に煽られ、がつがつした気持ちで愛撫を進めたが、急いた指は夏目の未知のところに触れたところで止まった。夏目はぎゅっと握った拳で口元を抑え、体をこわばらせていた。その緊張と不安を感じ取った瞬間、興奮で狭まりきっていた視界がぐんと広がった気がした。手を取って指を絡める。汗ばんだ額にキスを落とす。感覚の全てを研ぎ澄ませて、少しでも安心して体を委ねてもらえるよう手を尽くした。
たっぷり時間をかけて繋がり、夏目が戸惑いながらも甘い声を上げて達した時、胸いっぱいに幸福感が広がってオレも果てた。

「……正直言うとオレ、神崎君と付き合い始めてからも、どっか友達の延長線上って感じだったんすよねー」
腕枕に頭を載せ、汗だくの胸元に頬をぴとりと寄せて夏目は呟いた。その耳を引っ張ってオレは返す。
「あ? 友達とこういうことすんのかてめーは」
「痛い痛い! 好きは好きだったんだって……でも今日神崎君とこういうことして、ちゃんと恋人として大好きだなって思った。優しくされて嬉しかった」
ありがとね、とはにかむ夏目をぎゅうと抱きしめ、緩む表情を見せないようにする。そういうのはメールでくれ、と思った。保護マークつけて一生心を暖めるお守りにするから。

それからの日々、オレたちは夢中になって抱き合った。もちろん夏目の体を気遣いながら、だが。夏目は終わった後に体をくっつけてだらだら話をするのが好きで、この時間が一番幸せ、と言っていた。
「神崎君って付き合うのはオレが初めてだけど、初恋とか、好きになった人は他にいたでしょ?」
「初恋はお前だっつったらどーすんだよ」
「え……責任を感じる」
「違えけどな。幼稚園の先生だった」
「へー、美人だった? それとも優しい?」
「ガキの頃だから覚えてねーよ。髪が長くてきれいだったってことぐらいしか」
「神崎君って髪フェチなの?」
「思い出を汚すんじゃねえ……まあ、お前の髪もさらさらできれいだと思うけど」
オレは何も知らなかった。この時オレの指に髪を梳かれながら、夏目が何を考えていたかも。ずっと続くと思っていた夏目との穏やかな日々が、そう遠くなく終わりを迎えることも。

(後編に続く)