ファースト・ラブ

濃い緑のブレザーに、それより一段階明るい色のズボン。寒いから中に着るカーディガンも持ってきた。紺の斜めストライプのネクタイを締める時、ネクタイなんて製菓学校の卒業式ぶりだな、と懐かしく思う。
ウン年ぶりに着る高校の制服は、少しはたくましくなってきつくなってたりして、なんて期待もむなしくぴったりだった。まだイケる? もう痛い? 自分ではわからない。
腹を決めて洗面所のドアを開けると、リビングのソファにいた男鹿がふり返ってにんまり笑う。

「おー、違和感ねーじゃねーか。じゃあ行くか……制服デート」

☆ ☆ ☆

年末休み、実家に帰る前に大掃除をしてしまおうという日も、男鹿はうちへ来た。
昼飯にパンケーキを焼いてやって、キッチン収納の上の段の皿へ手を伸ばしていると、これか? と横から取ってくれた。

「……」
「何だよ、これじゃねーのかよ」
「……これだけど。男鹿また背伸びた? 今何センチ」
「春に計った時は百八十一だった。それからもうちょい伸びたと思う」
「でけーな……」
「まだまだだぜ、東条くらい欲しい」

皿を置いた男鹿がリビングに戻ってから、こっそりため息をついた。いつからだろう、はっきりしない。こんな風にふいにこいつにときめくようになったのは。
初めて迫られた時こいつはまだ十六歳で、結論を出す十八歳までまだマイナス二だぜ、なんて余裕ぶっこいていた。けどだらだらつるんでるうちに時は過ぎ、この夏無事十八歳の誕生日を迎えたし、高校卒業までもあと二ヶ月くらいだ。
ガキだから、とかわせる期間を終えたら、オレたちはどうなってしまうんだろう。そう意識することが最近増えてきた。

「古市、美味かった。おかわり」

昨日の夕飯の残りのきんぴらを載せた(意外と合う)おかずパンケーキをぺろりと平らげた男鹿は、次は甘いの、と要求してくる。バニラアイスとりんごのコンポートを添えた、焼き立ての二枚目を渡す――ふりして渡さない。

「男鹿、これ食ったら換気扇の掃除」
「しねー」
「お前なあ! こんだけ入り浸ってるんだからちょっとくらい協力しろ!」
「家にいたら大掃除手伝えって言われるから古市んちに逃げてきたのに、何でこっちでまでやんなきゃなんねーんだよ。オレは食ったらゲームする」

アイスが溶けると言って皿を奪う。こいつは本当にオレに好かれる気があるのか……?

「よーし男鹿、勝負しよう」
「勝負?」
「ゲームで対戦して、オレが勝ったらお前は換気扇の掃除とコンロ磨きをする」
「はあ? オレが勝ったらどうすんだよ」
「どうにでも。新作のゲーム買ってやるでも、好きなケーキ作ってやるでも何でもしてやるよ」
「じゃあ」
「オレが法律に引っかからない範囲内でな!」
「まだ何も言ってねーし……」

☆ ☆ ☆

そして話は冒頭へ遡る。
男鹿は休み時間に盗み聞いた女子の『卒業までに制服デートしたかった』という言葉が強く印象に残っていたらしい。
これでもだいぶ譲歩してもらった。こいつ最初はお姉さんの女子の制服着ろとか言ってきたのだ。

『古市女顔だからたぶんイケるぜ』
『お前自分がでけーから麻痺してるけどオレだって百七十五あんの! 骨格は男なの!』
『仕方ねーな、じゃあ古市が高校の頃着てた制服着ろよ』

金か手間で解決できることだと予想していたオレが浅はかだった。
繁忙期で会えないバレンタインシーズンの間に忘れてくんねーかな、っていう淡い期待も砕かれ、二月下旬の土曜日の今日、コスプレ制服デートは決行される運びになった。

「古市お前本当に高校生みたいだなー!」
「あんまでかい声で言うな……まあ、同い年ぐらいに見えるかもな、お前大人っぽいし」

中身はガキだけど。外に出てとりあえずこいつお気に入りの肉屋さんのコロッケを買い食いしに行くことになった。
こっち、と少し先を歩く短ランの男鹿。想像してみる。違う制服だから、中学までは一緒の幼なじみって感じか? 高校は別だけど何だかんだ土日は遊ぶ腐れ縁、みたいな。気は合うから一度友達になったら長く仲良くなるだろうけど、知り合うきっかけが思いつかねーな。だってこいつ、学校じゃ最強で最凶の不良なんだろ?

「ん? どーかしたか」
「いや、本当にタメだったら、友達になってなかったんじゃないかなーと思って」
「んなことねーよ」
「そうか?」
「だってケーキ屋と高校生の方がダチになるハードル高えだろ。それでこうなってんだから、タメでも何かがどうにかなってダチになる、絶対。運命の赤い糸だな」

赤くはない、と少し顔が熱くなるのを感じながらツッコむ。けど運命の方は否定しなかった。もともとただの店員と客だったのに、二回も衝撃的な再会をして、さすがに縁みたいなものを感じざるを得ない。

「男鹿のケンカに善良な高校生のオレが巻き込まれるとか」
「古市の作った菓子たまたま食って、誰のだって突き止めたりとかな」

あったかもしれない出会いを思い浮かべながらたどり着いたフジノのコロッケは確かにめちゃくちゃ美味しかった。
うちの店ではいつになるかわからないがパンも取り扱おうって話が出ている。コロッケパンもいいよな、って言ったら、今日は仕事のことは忘れろって怒られた。
制服デートの定番ということでその後はゲーセンに行くことになった。公園でおしゃべりとかもアリなのかもしれないけど、二月の外は寒い。
美味しいものを食べてからゲーム、なんて家じゃないだけでいつもとしていることは同じで、オレはいつしか制服を着ていることを忘れて普通に楽しんだ。
シューティングで散々足を引っ張ってバカにされた後には、パズルゲームで連鎖をためて仕返しした。男鹿はリズムゲームも得意で華麗な手さばきに人だかりができたと思ったら、クイズゲームで珍回答を連発してオレは腹を抱えて笑った。
UFOキャッチャーでごはんくんのぬいぐるみを取ってもらい、さて一通り回ったな、と思った時、男鹿がある一角を指さしたのでオレの目は死んだ。

「古市、あれ撮ろうぜ」
「何でせっかくいい感じに忘れてたのに直視せねばならんのだ……」

プリクラのディスプレイに映るのは高校生のコスプレをした古市貴之二十ウン歳だ。つらい。でも今日のオレは財布兼奴隷なので、拒否権はない。

「せっかくだから残したい」
「お前これ絶対東条さんとかに見せるなよ!」
「見せない。でもスマホの裏側に貼る」
「やめろ!!」

プリクラなんて昔ほのかにねだられて撮ったことあるくらいだ。お前撮ったことあんの、と聞けばない、と返ってきた。結果全然決め顔じゃない、中途半端な映りの写真ができあがって、その中でもマシなのを選び落書きコーナーに移動する。

「あっ、古市何でんなことすんだよ!」
「男鹿お前こそいい加減にしろ!」

ドスドスドスドス、とここは太鼓の鉄人コーナーか、という勢いの音が響き渡る。落書きのペンで男鹿がハートマークのスタンプを連打する音と、すぐさまそれをオレが消していく音だ。

「ラブラブだろーが」
「ラブラブじゃねーよ」
『あと五秒だよ☆』
「ちっ」

アナウンスの後、舌打ちした男鹿は赤のペンで何かぐちゃぐちゃっと書いた。さすがに時間がなくてそれは消せなかった。
しばらくして取り出し口から出てきたプリクラを確かめると、何種かの写真のうちの一枚、オレの体にぐちゃぐちゃ線が巻かれていて、それは男鹿の手に繋がっていた。

「これ何?」
「運命の赤い糸だ」
「……男鹿君、赤い糸は小指と小指ですよ?」
「そうなのか? 知らねー」
「……ぷっ、ははははっ! これじゃミイラの散歩じゃんか……!」
「何がんなおかしいんだよ、この方が強力でいいだろーが」

ひいひい言いながら笑うオレに男鹿は憮然としていた。制服も線で隠れてるし、これならオレもどっかに貼ってもいいかな、なんてちょっと思った。
ゲーセンを出るともう夕方だった。このまま帰るかファーストフードに寄るかぐだぐだ相談して、それさえ決めないで歩いていたいくらいまったりした幸せな気分がオレたちを満たしていた。

「あ、雨」

突然だった。ばたばたばたっ、という音とともにアスファルトに雫が落ちてきたと思ったら、あっという間にざあざあ降りになった。

「古市っ、傘持ってるか!?」
「リュックに折り畳み入ってるけど、どっか入った方が早い……っ!」

オレたちが駆け込んだのは今日は閉まっているさびれたブティックの軒下だった。息を整えてから抱えていたごはんくんのぬいぐるみを男鹿に預け、リュックから小さな折り畳み傘を取り出して開く。

「こんな小さい傘じゃ男二人入んないかー……」

お前でかいしな、と男鹿へ視線を向けると、ごはんくんをしげしげと眺めていた。

「……これ、全然濡れてねーな」
「だって抱えてきたし。せっかくお前が取ってくれたんだもん」

そう返せば男鹿は切なげに眼を細めて、低い声でバカ、と言った。

「こんなもん傘にして持ってくりゃよかったのに、バカめ」
「何だと、お前ごはんくんに謝れ」
「……ほんとバカ」

オレの濡れた髪に指を差し入れ、わしわしと撫でる。あ、と思った。その目に熱が、愛しさが灯っているのに気づいた。

「なあ、見ろよ……こうしてると本当に同級生みたいだな」

ブティックのショーウィンドウには制服で向き合うオレと男鹿が映っていた。

「お、が……」

傘を奪われる。それを人目を避けるように傾けて、男鹿はささやいた。

「……もし同い年の高三だったら、オレと付き合ってた?」

唇が近づいてくる。ダメだってわかってるのに、いつかみたいに拒めなかった。だって運命の赤い糸で、手も足も出ないくらいぐるぐる巻きにされているから。

雨は止まず、結局オレの家まで走って帰った。ひどいどしゃ降りの前では男二人に小さな折り畳み傘は無力で、着く頃にはオレも男鹿もずぶ濡れだった。男鹿にシャワーを勧めると、お前からでいい、と言われ先に入る。冷えた体があたたまっていくと同時に、停止していた思考も少しずつ解凍されてきた。

――お前のケーキ……一生、オレが食べてやる。

去年キスされかけた時も、正直止めたのはぎりぎりだったくらいあいつに惹かれていた。でもそれは、パティシエとしてこの上なくうれしい言葉をもらったのがでかかった。
けどそれから一年半を一緒に過ごして、いつしかパティシエとしてだけじゃなく、ひとりの人間として男鹿のかっこいいとこ、かわいいとこ、健気なとこなんかを好きになっていた。好きになって、キス、してしまった。
そう意識すると、キスした相手と代わりばんこにシャワーを浴びるこの状況はドキドキもので、もしかして、いやまさか、と悶々としながらいつもよりていねいに体を洗った。
交代して髪を乾かしてから、ジャージと買い置きの新品の下着を持って風呂場の前で声をかける。

「男鹿ー、着替え出たとこに置いとくからなー」
「……何だって?」

すると裸の男鹿が顔を覗かせた。

「うおっ、お前いきなり出てくんなよ」
「シャワーの音でよく聞こえなかった」

着替えサンキュ、とドアが閉まる。リビングへ戻ったオレはたまらずごはんくんのぬいぐるみをぎゅーっと抱いた。濡れた胸がたくましかったこととか、ドアを押さえた腕が筋張っていたこととか、ああもう。
今までも男鹿がうちに泊まったことはあって、その時に半裸も見たことあるのに、何でこんなに胸が高鳴るんだろう。

「古市ー、何か適当な袋あるか?」
「……ありますけど、何か?」
「何で敬語? 濡れた制服入れて帰る」

ところが男鹿は雑にドライヤーをかけた後、本当にさっさと帰り支度を始めた……まあな、今日のところはな! その腕でその胸に抱きしめられたい欲望が内心渦巻いてるけど、ここは大人の余裕だ、がっつかない。
玄関先まで見送ると、男鹿は靴のつま先をとんとんしながら今日はありがとな、とオレの頭を撫でた。

「制服デート、楽しかった」
「……恥ずかしかったけど、オレも悪くなかったよ」
「そりゃよかった」

またやろうな、なんて言うのかな、と思ったら、続く言葉は想像もしなかったものだった。

「オレさ、春から県外に行くことになったから。いい思い出ができてよかった」
「えっ……」
「じゃあな」

前髪を分けて、おでこに唇。驚きすぎて、目を瞑るのなんて忘れた。ドアが閉じる。オレは玄関先にへたり込んだ。

「ええー……」

ABCは続かない。ファーストキスはいい思い出で、恋を自覚したとたんにさよならだ。

☆ ☆ ☆

次の日は仕事だったけど放心して全然はかどらなかった。見かねた神崎さんに休憩時間事務所兼自宅へ呼び出され、何があったと問い詰められた。

「……つまりファーストキスを奪われたと思ったら急にもう会えない的なことを言われたと。ずいぶん勝手な女だな」
「……女の子じゃないっス」
「え、ま、まさか東条が言ってた、お前に懐いてる男子高校生……」
「それです」
「ええー……そういうのは飲み会の場で言えよ……夏目とか姫川とかいねーとからかうにもからかえねーじゃねーか……」
「……ファーストキスって大したことじゃないんスかね、今の若い奴にとっては」

神崎さんは夏目さんがまだ寝ているであろう寝室の方をちらりと確かめてから、真面目な顔をして言った。

「いや、今の若い奴のことは知らねーけど、一大事だと思うぜ……なあ古市、お前そいつのこと、今も自分から、本当に好きか? 言っちまえばふり回されただけじゃねーのか?」

本当に好きだろうか、ふり回されるばかりではなくて、自分の気持ちで。
わがままで勝手で口が悪い男鹿。オレの合コンをことごとく邪魔してきた男鹿。うちでケーキ食べてごろごろゲームしてばっかりの男鹿……どんな失敗作もぺろりと平らげてくれる男鹿。オレのケーキ、うまくいったのもいかなかったのも、一生食べてくれるって言ったじゃねーか。早くオレが頼れるような大人になりたいって言ってたのはどうなったんだよ。あのプリクラ、捨てられずにとってある。あんなに運命の赤い糸でぐるぐる巻きにしといて、お前の方から手を離すのかよ――全部、全部が本当にうれしかったのに。

「……好き、です……っ」

思い返しているうちに視界が潤んできて、手の甲でぐしっと拭う。神崎さんはため息をついて、ティッシュを差し出してくれた。

「わかったわかった! 別に今日明日会えなくなるわけじゃねーんだろ!? 好きな時に休みやるから、ちゃんと決着つけてこい!」
「すみません……」
「ちっ、謝んな、いい恋愛は絶対に職人の糧になんだよ!」

神崎さんが大きな声でそう言った時、寝室のドアが開いて、とっても楽しそうな顔をした夏目さんがそこから出てきた。

☆ ☆ ☆

二月の最終日、仕事を早上がりさせてもらって夕方に男鹿を呼び出した。

「古市から来いって言うなんて珍しいな。何か美味いケーキあんのか?」

現れた男鹿は、キスしたのも春からいなくなるって言ったのもなかったかのようにいつも通りだった。
短ランをソファに放りくつろぐ男鹿の前に、二、三人前の四号のガトーフレーズ――オレがこいつに初めて作ったいちごショートの皿を置く。いつもは仕込みだけの担当だが、これは最初からいつも神崎さんがやる仕上げまでオレが作らせてもらった。

「これ丸ごと食っていいのか」
「……どーぞ」
「マジでか、最高だな。いただきます……何か、いつもより古市のっぽい味がする」

めちゃくちゃ美味い、とにんまり笑う顔を見て、かわいい女の子じゃないけど、オレよりでかいけど、パティシエとしてケーキを作り続けたい相手だ、そして古市貴之として愛していきたい奴だ、と確信した。

「あのさ、」

ソファの隣にかける。短ランが邪魔でどかすと、フローリングの床にはらりと紙片が落ちた。手のひらぐらいの大きさで、何やら字が書いてある。

「……何これ」
「ああ、果たし状。下駄箱に入ってた。明日卒業式だからよ、今までにぶっ飛ばした奴が仕返しに来んじゃね」

『卒業式の後、体育館裏で待ってます』とあるそれは確かに果たし状ともとれる。こいつの普段の行いを思えばそれが順当だろう。でもピンクのペンの丸い字は明らかに女の子の字だ。オレはその紙の複雑な折り目を元通りに折り直した。すると出来上がったのは――ハートマークだった。
その瞬間、心が燃えた。火なんて生ぬるいもんじゃない、クレームブリュレの表面を焦がす炎のような勢いで、卒業してもたまにはケーキ食いに来いよとか、オレお前のこと好きかもしんないとか、言おうとしてたこと全部燃やした。
残ったのは欲望だった。所有欲、独占欲。オレ以外の『好き』をこいつの耳に聞かせたくない。こいつの『好き』もオレ以外の耳に聞かせたくない。一生。
そして、性欲。ラブレターと思しき紙片を握り潰して立ち上がった。

「……オレ、シャワー浴びてくる」
「は? 古市もう寝んのかよ、早くね? 仕方ねーな、これ食ったら帰る」
「男鹿お前今日、泊まってけよ」
「へ? でもオレ明日卒業式で……」
「オレはシャワー浴びてくるから、お前は泊まってけ」
「……古市」
「さすがにわかるだろ?」

語気を強めたオレに男鹿は最初怯んでいたが、覚悟を決めるようにぎゅっと目を瞑った後、スマホを取り出して操作した。ほどなくしてピロン、とLINEの着信音が鳴る。

「……お袋が、卒業式にちゃんと出るならいいって」
「わかった……シャワー浴びてくるから、ケーキ食ってて」

顔を背けて風呂場へ向かう。その途中で後ろから抱きしめられ、耳元でささやかれる。

「……何で泣いてんの」

溜まった涙をこぼしたのは、確かに背中を向けてからのはずだったのに、どうしてバレたんだろう。
これまでの人生、うれしかった時も悲しかった時も頭に来た時も、こんなに感情が高ぶったことはなかった。燃え盛った心の炎はバグを起こして、熱い雫をぼたぼたと頬に伝わせていく。だって、だってさ。

「お前はあっさりしてるけどっ、オレにとってはちゃんとした初の恋愛で、初キスで、初お誘いなんだよっ!」
「ふっ、初お誘いって」
「うるせーな!」
「オレだって初恋だし、初キスだし、初お誘われだっつの……これでも、あっさりしてるとか言うか?」

腕をつかまれて、手のひらを左胸に押し付けられる。ばくばくと脈打っていた。男鹿は美味そうなケーキを前にした時と同じにんまり笑顔を浮かべて言う。

「丸ごと食っていいんだな?」
「……どーぞ」
「最高だな。ほら、いただきます、するから、シャワー行ってこい」


どうやら行為の途中で気を失ってしまったらしい。最後の記憶がない。丸ごと食う、というのは言葉だけではなかった。隅々まで食らいつくされて、もう夜明けなのにどうやって今日仕事に行こうかと思うくらい体がだるい。
隣を見ると男鹿はいなかった、トイレか? 指一本動かしたくなかったが、喉が渇いて仕方なく起き上がり、下着だけ履いてキッチンへ向かう。

「おう、おはよ。古市」
「わっ、びっくりした。何してんの」
「コーヒー淹れようと思ってよ、いる?」
「……いる」

男鹿がコーヒーを淹れてくれるなんて。あのオレんちでは皿洗いさえしようとしなかった上げ膳据え膳野郎の男鹿が。
次の朝もやってくれるかな、それとも今回だけかな、なんて思いながらソファで待っていると、ふいに次の行為自体というか、そもそもお付き合いの確約がまだないことに気づいた。
昨晩の情熱的っぷりを思い返せば、さすがにこれすらいい思い出、なんてことはないとは思うんだけど。

「男鹿ー、お前引っ越しとかいつ?」
「え? しねーけど。家から通う」
「……どこに?」
「東京の〇〇市」
「近っ! 通えんじゃん」
「だから通うっつってんだろーが」
「ちなみにお前の進路って」
「製菓の専門。古市と同じ、ケーキ屋になる」
「なれっ……ねーとは限らねーか……」

手先が器用なのは昨日身をもって味わったし。というか。

「拍子抜けした……いい思い出になるなんて言うから、お前もっと遠くに行くのかと思ってた……」
「だって今みたいには会えなくなるだろ?」
「今が入り浸りすぎなんだよ!」

ああもうとんだ勘違い、店にまで迷惑かけて恥ずかしい。オレが頭を抱えていると、男鹿はコーヒーを運んできてローテーブルに置いた。そしてソファの上でくちゃくちゃになっていた、今日でおさらばの短ランを広げてにやりと笑った。

「それにしても結局、卒業前にしちまったな、オレたち」

『高校生 社会人 恋愛』で爆速検索。
お願いだから無理やりさせられたとか訴えないでと頼みこむと、男鹿はスマホにプリクラ貼ったらいいぜ、ともう既に貼ってある背面を見せつけてきた。

☆ ☆ ☆

男鹿辰巳:例の果たし状、やっぱり果たし状だった。お前に言われた通り行かなかったら追いかけてこられた

休憩時間、厨房の端でLINEを確認すると、ハートに折られた手紙はラブレターを装った果たし状だったらしい。オレはどこまで勘違いさせられれば運命の神様は気が済むんだ。スマホをしまおうとしたところで、神崎さんがちょうど通りかかった。

「古市……お前今、スマホ、何かプリクラ……」
「な、何か見ましたー?」
「だから何で他の奴がいねーとこでお前はやらかすんだよ! からかえねーっつーかこっちが何か恥ずかしいじゃねーか!!」
「すんません……そうだ神崎さん、どんなのがいいか教えてほしいケーキがあるんですが」
「フン、上手くいったなら、そいつのためのケーキは自分で考えろ」
「そいつのためというか……そいつのご家族に交際のごあいさつをしに行くためのケーキというか……」
「ぐっ……やっぱいつかは要ると思うか」
「要るんじゃないスかね……そっちの事情は知らないスけど、同棲までしてるんですし」
「……スケッチブック持ってこい、本気で考える」

パティシエは考える。美味しいケーキを、売れるケーキを日夜考える。
生きるために必ず要るものでも、ずっと取っておけるものでもないから、時には魔法が解けて砂糖と脂肪の塊に見える夜もある。
でもだからこそ大切な人よ、その唇に一口運んで、笑顔を見せてほしい。美味しいと言ってほしい。
それが砂糖と脂肪の塊を、時にどんな花より香水より宝石より価値のある宝物へと変える、魔法の泡立て器の原動力。
オレは考えている。いつも何よりも、お前を喜ばせるためのケーキを考えている。