Never Too Late

2/14(神崎視点)

冷蔵庫の温度や表の施錠なんかを最終確認して店を出た。
気づけば周りの家の灯りはすっかり消えるほどの真夜中で、全身に鈍くのしかかる疲れ、こんな時は店の向かいのマンションに住んでいて本当によかったと思う。
バレンタインなんて個人的には全く縁がないが、洋菓子店では一年で指折りの稼ぎ時だ。
準備は構想を含めればクリスマス直後から始まっていたし、日持ちするチョコレートが仕上がっても、限定のケーキの仕込みやラッピングの手伝いなんかもあり、ずっと忙しい日々だった。
バレンタイン当日の今日月曜日まで、金土日あたりのピークを抜け、明日からはようやくとりあえず何もない平日に戻る。
働きづめだった厨房の奴らに休みをくれてやったから、オレはもうちょい頑張んねーとな。
後手後手に回っていた通常の焼き菓子、かなりストックが減っていたはずだ。

「……ただいまー」

部屋は真っ暗で、夏目はまだ帰っていないようだ。
まあな、オレとは違う意味であいつも稼ぎ時だ。忙しくて収穫のほどは知らないが、土日含めてかなりのチョコレート、もらってんじゃねーかと思う。
ホールの女連中からドリップコーヒーをもらったのを思い出してやかんを火にかけた。チョコレートは作ってるだけで腹いっぱい、そんな気を察してくれたのかありがたい。
これ飲みながら一服だ。
やかんの口から湯気が立ち上り始めたとき、玄関の方で物音がした。

「たっだいまー」
「酒くせーぞ」
「だってそれがお仕事だもーん」

キッチンのオレに気づき後ろからもたれかかってくる。足取りはおぼつかなくてストライプのスーツは酒と煙草くさい。
ほとんどざるなはずなのに頬がほんのり赤いのを見ると、かなり飲まされたようだ。
八月から同棲を始めたこいつ、夏目はホストクラブをやっている。

「あ、コーヒーだ。オレも飲みたい」
「酔っ払いは水でも飲んでろ」
「こんなちゃんとしたドリップあったっけ? 誰かにもらったの?」

ちゃっかり自分のぶんのマグを用意すんな、誰がやるっつった。
こんな話の通じない宇宙人がナンバーワンでオーナーとか、世の中どうなってんだよ。お付き合いがオレの運命的な一目惚れから始まったことはこの際棚に上げておく。

「神崎君とこやっぱり混んだ?」
「混んだ混んだ、嫌っつーほど混んだ。お前んとこは」
「んー、うちはやっぱ金土あたりがピークだったけど、今日もまあそこそこ」

それぞれコーヒーを手にリビングへ移る。
煙草を点けようとしたら夏目に止められた。

「待って待って。コーヒーなら甘いものの方がいいでしょ」

テーブルに紙袋を上げる。そこから出てきたのは、見覚えのありすぎる包み。

「……うちのじゃねーかよ」
「うん、お客さんたちにオレあのお店のお菓子好きなんだーって言っといたの」

まだあるよー、と出るわ出るわ、大きめの紙袋から姿を現すのは、すべてうちの店のチョコレートだ。

「姫ちゃんに言われたんだ、根回ししてうちの店から買わせろって。お返しも神崎君のとこでまとめて買うし。オレ貢献してるでしょー」

金に汚いうちの経営者が言いそうなことだ。
今さらバレンタインにロマンなんて求める気はねーが、ここまで身内の策略が絡んでいるとため息しか出ない。

「……まさかこれ売場に戻せとか言うんじゃねーだろうな」
「さすがにそれはしませんー。全部食べるよ、でも多いから手伝って」

うちの商品は量より質で、ひとつひとつは三個入りとか五個入りとかさほど多いもんじゃねーが、いかんせん数がありすぎる。
一ヶ月くらいチョコレートで暮らせるんじゃねーの。

「箱シックでいいね、ワインレッドのリボンもきれい」
「きれいじゃねーよ誰だこれ結んだ奴、結び目寝てんじゃねーかよ」
「すごーいチョコもおしゃれ、この花柄描いてあるのどうやるの」
「これ古市だな、転写ズレてんじゃねーか、後でシメる」
「……神崎君普通に食べようよー」
「仕方ねーだろうちの商品なんだからよ、うめーとか言う前にチェックになるわ」

箱をひっくり返し、これ賞味期限シール貼ってねーとかぶつぶつ言っていると、呆れていた夏目は立ち上がり冷蔵庫へ向かった。

「じゃあこれなら美味しく食べてくれる? オレからの、本命チョコ」

黒い箱にワインレッドのリボンという組み合わせはうちの店と同じだったが、どちらももっと色が深く高級感がある。
箱に刻まれた店名に息をのんでいると、夏目は開けるよ、とささやいてリボンを解き、ふたを取った。
艶やかなビターチョコ、ねっちり波打つミルクトリュフ、中央に輝く真紅のハート型――三個入りのそれは菓子と言うより宝石のように美しい。
オレだってこういうものを作りたかった。
似たようなイメージを思い描いていても、いつだってこんな風にはるか上を飛び越えていくのは。

「食べないの?」
「……だって兄貴の店のだろ、これ」

実家の小さなケーキ屋を継ぐのは、本当は兄貴のはずだった。兄貴はセンスも技術もオレよりずっと上だった。
なのに外の店の職人に惚れ込んで出て行ったせいで、オレに回ってきて。
ずっとコンプレックスだった。
売上がふるわず残り物をゴミ箱に捨てる夜や、新しく入ってきた見習いと衝突してすぐに辞められた日なんかは、兄貴だったら絶対うまくやれたなんて気弱な考えがよぎることがあった。

「……怖い?」
「……っ」
「神崎君、あーん」

オレが押し黙ると、夏目はハートをつまみあげてオレの口元によこした。
食べられない。食べたくない。見た目通りにこのチョコはオレが作るもんよりきっとずっと美味くて、でもそれを思い知らされたくない。

「甘いものには罪はないよ。お兄さんのチョコも神崎君のチョコも、百円の板チョコだって、みんなそれぞれ幸せのもとでしょ」
「……」
「たとえお兄さんのチョコがどんなに美味しくても、オレは明日もあさっても神崎君のケーキ買いに行くし」
「夏目……」
「指の温度で溶けちゃーう」

ぐ、と唇に押しつけられたので、観念して口を開けた。
一噛み目は抵抗があったが、広がるホワイトチョコとフランボワーズの優しい風味に唾液が溢れ、いつしかもっともっとと味わう。美味い。何だこれ、すげー美味い。
オレのそんな様子を夏目は頬杖をつき、やわらかい笑みを浮かべて眺めていた。

「……やっぱり敵わねーな」
「神崎君泣かないでね? せっかくのチョコしょっぱくなっちゃうから」
「泣くかよ」
「そう?」
「……泣いてる暇なんかねーよ」
「ふふ、それでこそ神崎君だ」

店の真ん前まで行って、けど足がすくんで結局入れずに帰ってきたこともあるほど恐れていた兄貴の菓子は、やっぱり美味かった。
その美味さは心をくじくかと思いきや、逆にオレを奮い立たせた。
でも、夏目、お前が差し出すハート型じゃなかったら、きっと口まで運べなかった。

「そんなにおいしい? オレも食べたい」
「やんねーよ、もらったんだからオレのもんだ」
「けちー」
「……これより美味いやつ、来月作ってやるよ」
「わー、それが一番うれしい。期待してるね」

これより美味いやつ、なんてそんなのハッタリだ。一ヶ月そこらじゃこれの足下にも及ばない。
でもきっと明日からは、今までよりもマシに作れる気がした。
後ろ頭引き寄せて唇を合わせれば、夏目は美味しい味がする、と笑う。
意地と照れで気のきいた言葉なんざ言えないオレが、それでも見たくて菓子を作り続ける、無防備で底抜けの笑顔だった。