タイムマシンなんかいらない

湿って冷たいシーツに頬をつけたまま、窓の外で日が暮れて夜になるのを眺めていた。
枕に引っかかっていた猫の毛みたいな金髪は、いじくり回してるうちにどこかへ行ってしまった。
投げ出した腕、手の指や爪のかたちをぼんやり視線でなぞる。我ながらきれいに整ってると思うけど、それでもやっぱりでかくてごつい。
数時間前、すごく愛おしそうに絡められ口づけてもらった手。でも結局、どうあがいても男の手。馬車になる魔法がうまくかからなかった、ねずみやかぼちゃみたいだ。

今日、はじめて神崎君とキスの先まで進んだ。
結果、うまく最後まではできなかった。

こんなに好きなのに受け入れない体がもどかしかったし、これで冷められたらどうしようって不安にもなった。
正直、安心させてくれるような確かな言葉が欲しかったけど、そんな風な全部を考えてる自分が、女々しくて嫌でもあった。
気にして、気にしないで。気づいて、気づかないで。せわしなく点滅する心がうるさくて、きゅっと眼をつむる。

いっぱいいっぱいなのは、する側もはじめてだった神崎君も同じで。
ごめんなごめんねって中身もなくとりあえず謝り合って解散した。そして現在に至る。

(好きって気持ちだけで、何でもどうにでもなると思ってた……笑えるけど)

魔法の言葉だと思ってた。でもそうじゃなかったって知った。
付き合い始めてからずっと加速し続けてた勢いに、水を浴びせられた感じだった。
ひとつ気づいていったん歩みを止めてしまえば、気持ちだけじゃどうにもならないことはいくらでもあるように思えた。体のつくりなんてその中の一個で。
そんなのを神崎君とひとつひとつ越えたり他の道を探したり、していけるんだろうか。

いつもたくさんつけてるピアスやシルバーアクセを、今日は全部外してふれてくれたことを思い出す。
シャワーを浴びて部屋へ戻ったら、机の上にきれいに並べてあった。

『……痛かったり、怖かったりしたら言えよ』
『へーきだって。痛いとか怖いとか、そんなガラじゃないでしょ」
『アホが。じゃなくねーんだよ……少なくとも、オレにとっては』

そして実際に、俺が意を決してちょっと無理かも、と途中で告げると、すぐにやめて何も言わず強く抱きしめてくれた。
でも、一瞬でさあっと青ざめるところを見てしまったし、背中に回った腕はかすかに震えていた。当の自分よりもっとずっと怖い思いをさせてしまった気がした。

それはたぶん、オレが相手じゃなきゃしないで済んだ思いで。
あんな人、やさしいやさしい神崎君に、あんな顔をさせるほど。この恋に、オレに、意味や価値があるんだろうか。ここでつまずいたことは、傷が浅いうちに引き返した方がいいってしるしだったりして。

(……何言ってんだオレ、へんなの)

傷が浅いうちに、なんて。
これまで他の女の子たちと付き合ってた頃は、そんなこと思わなかった。
うまくいってもいかなくても、それとは全然関係なしに明日は来るし、普通に暮らしていけるって疑わなかったのに。

「……シーツ洗お」

言葉に出して弾みをつけ、起きあがる。
汗やなんかで湿り、神崎君のワックスが香るシーツじゃ、とてもじゃないけど眠れそうにない。
これから洗って乾燥もかければ寝る前には間に合う。親は帰ってくるかもしれないけどまあ、からかわれる程度で咎められはしないだろう。
ベッドから引き剥がして丸め、一階へ降りて洗面所の洗濯機に放り込む。
スタートを押して洗剤や柔軟剤を入れたところで、二階から置きっ放しの携帯が鳴る音が
聞こえた。
慌てて部屋へ戻ると、画面に表示されてるのは期待していた、そして同じくらい恐れてた名前だった。

「……もしもし」
『オレ。今ちょっといいか』
「うん、大丈夫だけど。神崎君外? まだ帰ってないの」
『あー……なんか歩ってた』

電話の向こうから話し声と車の音、風の響きが一緒くたになった夜の街のざわめきが伝わってくる。
オレの家からまっすぐ帰るだけなら静かな道だ。自分ちの前を通り越し、にぎやかな方まで歩き続けたのがわかって、よくない想像が胸をよぎる。
だってあんな後に何時間も夜をさまよって、その末にかけてきた電話なんて。

『それでよ……お前の部屋にオレの時計ねーか』
「時計? って、腕時計?」
『おー、黒いやつ、デジタルの』
「あー前からしてるやつ……なんだ、そーいう電話?」
『あぁ? なんだってなんだ。さっき気づいたんだけど、ねーんだよ』

焦ったようすの神崎君には悪いけど正直拍子抜けして、思わずそんなことかって声を出してしまった。
とりあえず部屋の中を見回したり、ベッドの下を覗き込んだり探してみる。
黒い、デジタルの腕時計。毎日じゃないけど、私服のときなんかよくつけてた。高一で出会った頃からそれ一本、他のをしてるところは覚えがない。
ド定番のブランドの、さらに定番の色とかたち。普段の趣味からすると大人しめで、少し浮いて見えるのが特別な感じだった。
お父さんか誰かからのプレゼント? って聞いたことがある。親父じゃねーけどまあな、と言っていた。

「……ピアスとかと一緒に外したんじゃないの、机のとこには見つかんないよ」
『いや、時計は先に外してケツポケットん中入れてた……ベッドとか、床とかに落ちてねーか』
「ないと思うけどなー……」

何もなかったようにしてみたってさっきの今だ。気まずくてお互い変な早口になる。
一秒でも早くひとりになりたいみたいに、神崎君はそそくさと部屋を出て行った。きれいに並べたピアスを荒っぽくつかみ、学ランのポケットにねじ込んで。
オレはベッドから立ち上がりもせずに見送った。ドアが閉まる直前、じゃあね、ってかけた声がかすれたことまでよみがえれば、胸が苦く痛む。

(うれしかったのになー……したいって思ってくれたことも、精いっぱいやさしくしようとしてくれたことも、それ自体はすごく。ほんとに)

でもそのうれしい気持ちも、今まだ続くこの気まずさと比べると淡すぎて、かんたんに塗りつぶされてしまう。全部まとめて蓋をしたい記憶、ってことになるみたいなのが悲しかった。
もういっぺん、今度は物をどかしながら探したけど、時計はやっぱり見つからない。

「ごめんね、ちょっと出てこなそう。うちのどっかにあるのかな……神崎君、ポケットとか鞄とか、今もっかい探したら案外持ってたりしない?」
『それは思って何回も見たっつーの……夏目お前、今家ひとりか』
「え? うん、まだ誰も帰ってきてないけど」
『じゃあ、あー……いや、どーすっかな……』
「……」

探しに戻る、と言おうとしたのがわかった。けどオレと今またふたりきりになるのを想像してみたら気詰まりで、ためらってることも。
電話の向こうでパー、と車のクラクションが鳴る。神崎君は一瞬息をのんで、それから深く吐き出した。
ヘッドライトが照らし出すみたいに鮮やかに、疲れて途方に暮れた表情が頭に像を結ぶ。
陰影のちょっとした加減で印象ががらっと変わる顔立ち。機嫌がいい時は歳よりガキっぽいけど、こんな日はきっと高校生に見えない。
かわいそうだな、と思う。時計もなくすし、なんだかもう。

『んー……わり、ハンパだよな。えーっと……』
「うん……」

かわいそうで、助けてあげたいと思う。全然気にしてない声で、そうだね見に来てくれる? なんて言葉は後もう少しのところまで出かかってる。
けどその後もう少しが、どうしてもできなかった。絞り出そうって力を込めようとすると、笑うみたいにすっぽ抜けるーーどっか痛いって気づく時みたいに。
神崎君をかわいそうだと思うのと同じくらい、その元凶の自分がみじめだった。
助けたい。でも本当は、オレも助けて欲しかった。

「……もう、時間も遅いし。オレ今ちょっと、廊下とか玄関も見てみるよ。あるかどうかわかんないけど、万が一ってこともあるし」
『おー……サンキューな』

だから、これぐらいが今できる精いっぱい。けど神崎君はバレバレの逃げの、むしろその不完全さにほっとした感じだった。
もしかして、助けてあげたいけど痛くて力が出ないのは、向こうも同じなのかもしれない。
携帯を耳にあてたまま、部屋を出て見回しながら階段を降りる。

「ないなー……神崎君、帰りトイレ行ったり別の部屋入ったりした?」
『してねーよどこも。トイレはともかく他は勝手に入んねーだろ普通』
「はは、だよねー。まあ念のため」

別に今日、この一回のことだけですっかり面倒になっちゃうかも、って疑ってるわけじゃない。そんな薄情じゃないのはちゃんと知ってる。
でも、こういうことがひとつあるたびに、少しずつ疲れてぬるくなって。
それが積み重なっていつか、好きだって気持ちだけで何でもできると思ってた魔法も、完全に解けちゃう日が来るんじゃないかって思う。
なんでこいつにのぼせてたんだろう、って目で見られたり、見たりするのを想像したら怖かった。

「玄関にも見当たんないねー……あるとしたらここかなって思ってたんだけど。一応、通ったはずのとこは全部見たよ」
『あー……じゃあやっぱねーのか……』

うまくいかないことや不安があるのは、最初から予想してたつもりだった。それでも近づきたいって付き合い始めたはずなのに。
あたためてきたものがちょっとでも冷える瞬間に、いざ直面してみると、途端に怖気づいてしまった。戻れるうちにいっそ、友達へ引き返した方がいいのかもしれない、なんて迷いが頭をかすめる。
だって行き着く果てまで行って、そこで壊れたらきっともう、神崎君はくだらなすぎるちょっかいをかけてきてはくれなくなる。クソガキみたいな顔でひゃっひゃ笑うから、呆れつつオレも頬がゆるむ、そんな魔法以前の日々にさえ、手が届かなくなってしまう。

『……ん? なんの音だ』
「ああ、洗濯機。ちょっと遅いけどまあ……さっき回し始めて」

玄関まで見て部屋へ戻る途中、洗面所の前を通りかかった時、神崎君が怪訝そうに聞いてきた。
そういえば後どれくらいかかるんだろ、って覗き込むと残り時間はまだ二時間以上あって、それは別にいいんだけど。そこでふいに、ドラム式の洗濯槽の中からカツンカツン、となにかぶつかるような音がするのに気づいた。
思わず首を傾げる。なんだろう、ファスナーとか金具ついてる服ならともかく、だって洗ってるのはーー。

「……あっ」

ベッドから引き剥がして丸め、そのまま放り込んだシーツ。見つからない、神崎君の忘れ物。
鮮やかに一瞬で脳の回路がつながり、カツンカツンって音の正体に思い至る。
無情にもそこで洗いからすすぎへ変わり、洗濯槽に水が注ぎ足されたから、慌てて一時停止のボタンを押した。

ピー、とエラー音が鳴る。
それが催眠術のきっかけだったみたいに強い眠気に襲われて、意識が途切れた。

(ここでつまずいたことは、傷が浅いうちに引き返した方がいいってしるしだったりして)
(戻れるうちに、いっそ)